数年前から地図で,宇野駅から北西に離れた後で南西に延びる,部分的に遊歩道になっている小道が気になっていた.それは滑らかで,見ただけで廃線跡と断定できるような道であった.先には造船所があり,廃止された引き込み線と思っていた.

 最近調べてみると,それは確かに引き込み線であったが,旅客営業をしていた時期がある事が分かり,行ってみる気になった.引き込み線の廃線自体も,もちろん関心はある.しかし,旅客運転が為されていた事は交通機関としての意味合いが全然異なると思う.

 03年の夏にJR宇野駅に降り立った.

 瀬戸大橋が出来て,宇高連絡船が廃止になってから宇野駅に来たのは初めてである.連絡船が廃止になる少し前にわざわざ来て以来である.駅は新しいが,何のことはないローカル線の終着駅の雰囲気である.

 実は宇野駅で改札を出たのは今回が初めてである.いつも慌ただしく小走りで,汽車から船へ,また船から汽車へと移動した事しか記憶にない.四国連絡駅だった宇野駅の駅前はすっかり片付いていた.海が遠くなったように感じた.後で調べたら宇野線は0.1km短くなっており,駅は北に100m後退したことが分かった.地図上では,元々連絡船が着いていた岸壁等で埋め立てが進んでいることが分かる.現地に立てば埋め立ては完了しており,新しいフェリーターミナルも出来ていた.駅もその際新しくなった様子であった.

 駅を出て西側の道を北へ歩いた.実は車窓から地図にあるように西に離れる土地境界があるのを見つけていた.広潟公園の西の境界がそれで,緩やかに西へ向かったカーブしていた.その場所へ行った.境界の西側は車が1列分収まる駐車場であった.軌道跡はすぐ西の県道22から遊歩道になっていた.県道には広潟歩道橋があり,遊歩道から駅へ安全に移動できる仕組みであった.振り返ると駐車場部分が軌道跡であるらしかった.

 遊歩道の解説看板があった.ここからの北コースは往復2200m,先にある南コースは往復3800mとある.地図ではトンネルが2カ所あることが記されていたが,うっかり懐中電灯を持ってくるのを忘れた.しかし遊歩道,記載ではジョギングコース,が整備されていたのを知って安心した.トンネル内には明かりがあるはずである.

 遊歩道を歩く.造船所の重量物を運ぶ引き込み線だけあって幅も広く,基礎はしっかりしているように感じた.北寄りだった方角は左カーブで南寄りに変わり,宇野中学校の北を過ぎ,南西に向きを取る.北側は山体で巨大な一枚岩を切り取ってその基部を進んでいる.山には剥き出しの丸まった岩が散見された.後で巨岩のある風景は地名の起源と分かるが,その時は生えている木々が貧弱で,”鷲羽山と似ているな”,と感じた位であった.

 付近までには,「広潟」と「玉野高校前」という駅があったが,駅の痕跡は感じられなかった.引き込み線を活用した路線なので,駅は後に作られたわけで,廃線後に駅の痕跡が急速に失われたのは理解できる.

 ジョギングコースには100m毎に標識があり,県道から始まって,400mでトンネルになる.天井は高く間口は広い.架線のスペースが取れていた事も理解できた.蛍光灯がちゃんと整備されていた.軌道は僅かに右カーブであったがトンネルの出口付近から直線になっていた.トンネルを出て少しで600m標識なので,トンネルは200m近くあったと云える.後で調べて,トンネルは「天狗山トンネル」で長さは179mあることが分かった.

 軌道の両側に道路がある部分になり軌道面は1m位高くなっていた.しっかりしたコンクリートのフェンスがあり立派な軌道であったことが分かる.軌道は直線の後,緩やかに左カーブして900m標識を過ぎるとR30に斜めにぶつかる.途中に「西小浦」駅があったそうだが,地図でその名の公園が近くにあるのみであった.

 R30の「検察庁北」交差点を斜めに渡り,1000m標識辺りで緩やかだった左カーブは終わり直線となる.もう一本道路を渡ると,北コース折り返し点の1100m標識である.西側は市民病院であり,市役所の西300m位になる.ジョギングコースは継続するが,何故か北と南にコースは分かれている.どうも「玉野市役所前」駅跡の様な気がする.市としては,役所前駅からの視点で両側に延びる軌道跡を整備した,と邪推した.

 市役所前駅のすぐ南に古塩浜信号所があり.唯一交換が出来る場所であったそうだが,駅や信号所跡の痕跡は感じられなかった.

 軌道跡は徐々に土盛りが高くなり小山にぶつかる.2つ目のトンネルがありやや左カーブだが出口は見えていた.入口に南コース300m標識があった.後で「中山トンネル」,157mなのが分かった.トンネルは2本共,中の壁が補修されていて湧き水が頭に落ちるということはほとんど無かった.それまでトンネルを含めて自転車の通行が多かった.もしトンネルを閉鎖すれば遠回りになるので生活道路としての軌道跡は大いに機能していると云える.

 遊歩道は緩やかに右カーブし潮の香りがしてきた.地図でも海は近い.重機の高い部分も見えた.「藤井海岸」駅があったそうだがその名の公園が地図であるのみであった.900m標識で右カーブは終わり直線となる.宇野駅から遊歩道までと遊歩道を2km歩いたが,あっという間と感じた.さらに1000m,1100m標識とちょっとうるさい位ご丁寧である.

 付近は両側とも道路は無くて,家の裏手を軌道は走っていたことが分かる.1カ所,小さな溝に土管がわたっていて,そばには鉄骨もわたっていた.鉄道遺物であろうか,気になった.「玉野保健所前」駅辺りになるが,やはり駅の雰囲気は無かった.

 1300m標識の少し手前で軌道はやや左カーブし短いトンネルを抜ける.3本目のトンネルは私の地図には無かった.後で,大仙山トンネル(60m)だったと分かった.トンネルの出口には落石防止のコンクリート壁があった.軌道はすぐ海岸沿いのバス道を斜めに横切る.正面の海岸線にある岩山には大聖寺がありその裾に大聖寺駅があったと推定できる.軌道は真っ直ぐなら岩山にぶつかるので道路を渡る付近から右カーブしている.

 ジョギングコースは,道路を渡らずに道路の北側にある広い歩道を西へ進むのだが,軌道は岩山の基部をかすめて道路のすぐ南側に架かる橋で水路を渡る.橋にはコンクリートの橋脚が3本あり頑丈そうで当時のままと思われた.橋桁は水面ぎりぎりである.後で調べたら,その時は満潮で基準から2.5mも潮が高いことが分かった.干潮時の橋脚の全容が見たかった.

 橋自体は歩道専用になっていた.滑らかに右カーブしているが舗装されているので軌道跡とは見えなかった.軌道は橋を渡ると造船所の敷地に入り,立ち入れない.水路は道路沿いに西に延びていて水路の南側の造船所との間に歩道があった.

 歩道から造船所をフェンス越しに見れば何やら枕木のような物も見え,軌道は構内道路になっているらしかった.歩道を西へ歩くと造船所の門の前に出た.玉野市営電気鉄道は,三井造船への引き込み線を利用して1953年,宇野〜玉の3.5kmを開業した.当初の終着駅の「玉」は今のフェンスが尽きた辺りかと思われる.バス道に出て信号を一つ西に行くと,「玉橋」交差点である.交差点の北東角には広い三角の角切りがありトイレと屋根の付いた広場がある.玉駅は0.2km西に引っ越してここに移った事が分かった.造船所の門からそこまでは病院の敷地になっていた.

 角切りの斜めになった所に銀行があった.元は三井銀行だったそうで大きくはないが立派であった.軌道は造船所の門から北に曲がり道路を渡ってここに至るが西から北へほぼ直角に曲がっていてかなり不自然であった.軌道は引き込み線部分を終わり,無理矢理に奥玉方面へ延長した風に感じた.

 廃線歩きを中断し,造船所に沿って南下した.引き込み線の延長が見れるかと思ったが,フェンス越しのせいもあって痕跡は見いだせなかった.バスで,その日予定していた玉野市立海洋博物館に行った.館内には,四国連絡駅であった頃の宇野駅の模型があって楽しめた.博物館は渋川海岸にあり海水浴客が多かった.浜に出ると正面に瀬戸大橋が見える.右の下津井瀬戸大橋から始まり,左に向かって橋が並んでいる風に見えた.つまり沖を左右に橋が架かっているように見えた.奥に向かって遠ざかるように橋が架かっていたのなら納得がいくが,地形の関係でそうなっているのを地図で納得した.

 バスで戻る.玉橋から北への軌道跡は砂川に沿うものだが,川や沿う道路が奇妙である.川はほとんど暗渠化され,道路や駐車場用地として両側からせり出している.昔は海に近いゆえ船溜まりであったように感じられたが,それにしても奇妙な地形になっていた.軌道は東からせり出した駐車場部分を北に向かっていたらしい.駐車場はひと並びなので延々と長い.

 500m位で,玉ひめ神社前の信号に着く.「玉ひめ」と書いたが,漢字が出ない.「玉」・「比」・「め」で,「め」は,「口(くち)」偏に旁が「羊」である.「玉ひめ神社前」駅もあったが,地元以外では,超難読,といえる.神社には角が丸まった巨大な露岩がある.かつて,玉石,と云われたが,その成因は付近が海だった頃の波の作用によるものだそうである.その「玉」が付近の地名の玉になり,玉野市の玉にもなった.地名の宇野は東隣りになるが,こちらの方が古くからの町だそうである.玉野市が市制をしいた時,こっちが勝ったことになる.ただ玉野市は現在,岡山市に吸収合併される話が持ち上がっている.

 寄り道をした.

 駐車場はまだまだ続き,バス停「玉小学校前」に至る.東にその小学校があり,同様に駅もあった.軌道の終点はその少し先の,日比変電所がある場所で,玉遊園地前駅である.遊園地自体はもう少し北にあったそうである.新しい玉駅から1.0km,60年に延長されたが,72年に全線4.7kmが廃線となった.旅客営業のはじめは電車であったが,赤字で気動車に変わった.旅客運転されていた期間は短かったといえる.

 歩いて玉橋まで戻った.玉橋には特急バスも止まるバス停がある.岡山駅と玉野・渋川間を30分間隔でバスが走っている.JRは四国連絡の頃は快速で岡山〜宇野を33分で結んでいたが今では乗り換えが必要な列車も多く,時間もずっとかかる.私は特急バスに乗ったが,岡山までは乗らずに宇野駅で降り,電車で岡山に戻った.