鯖浦線は今のJR鯖江駅から今も現役の福井鉄道水落駅を経由して,朝日町の西田中駅を通り織田(おた)町の織田駅まで延びていたローカル私鉄である.さらに越前海岸の梅浦地区の四ヶ浦まで計画されていたが,延伸は実現しなかった.織田止まりで廃線になってしまったが名を鯖浦線という.読み方は現地では今でも「さばうらせん」が通りが良いが,正式には異なり,「せいほうせん」というらしい.ただ「せいほせん」という記録もあるのでどっちかは実は分からない.

 02年初冬に廃線歩きをしたがそれまでに旧沿線は3度訪れたことがある.

 1回目は何年も前に越前海岸を訪れた時で,帰りに梅浦から織田を通って武生までバスを利用した.その時は,織田町の剣神社の神官の家系に織田信長がいたことや,織田のバスターミナルが元は汽車の駅で地元では「駅」や「駅前通り」が今も通用していること等を知識として習得したのみであった.

 2回目は福井駅からバスで清水町の郷土資料館を訪れ,さらに同じ系統のバスで朝日町の古墳公園と郷土資料館,及び福通寺(朝日観音)を訪れた時である.その際は西田中という,織田駅と同様に今でも地元で駅と呼ばれているバス停から地図を見ながら水落方面への軌道を眺めたものであった.そのバスは,たまたま川去(かわさり)経由であったので自転車・歩行者専用道路となった軌道跡が良く窺えたわけである.また複数の現地の人に軌道跡のルートや現状を尋ねて廃線歩きの作戦も考えた.

 3回目は意図的に廃線跡を眺めに織田へいった.01年の暮れであった.鯖江からのバスは便が悪かったので,JR武生駅からの便を利用した.そのバスは「八田」経由で,途中「樫津」で廃線の軌道と合流することが地図で分かった.そこから織田までの行きと帰りでルートを眺めたが,バスからの眺めということもあってか鉄道遺物は全く分からなかった.尋ねても「道路になって何も残っていない」とのことであった.相手の廃線跡に対する関心がそれほど高いとは思えないので100%「何も残っていない」のではないかもしれない.駅のあった「樫津」,「下江波」,「江波」も道路のそばに何となくスペースがあるかな,という位で全く廃線跡という感じはなかった.バスは「やぐら」といって,駅はあったが現在その名前のバス停は無い場所の少し北の信号で軌道跡から西へ離れ,織田の町中を通り,剣神社を経由して旧織田駅に至っていた.その間は軌道は町中を通っていなかった事になる.

 織田駅跡はバスターミナルになっていて,広いので行き先別に3カ所,バスの止まる場所がある.そして織田信長の銅像があった.地元ではそこは今でも”駅”である.また”駅”の北側の道を真っ直ぐ北へ行けば剣神社にすぐに突き当たるのだが,その道は今でも”駅前通り”である.地元の人もそう言うし,アーケード状の看板にもちゃんとそう書いてあった.

 剣神社の北隣りに,織田町文化歴史館がある.図書館と郷土資料館の複合施設で,織田の地勢がパネルで展示してあった.受付の方に鯖浦線の延伸部分や廃線部分の事を伺ったが殆ど情報は得られなかった.織田は盆地で延伸計画は現在のR365とR417の兼用国道のルートしか考えられない.延伸部分は,地図で見ても途中に山中トンネルがありかなりの峠越えである.以前そこをバスで通ったが,鯖浦線の事は頭になかったので全く地形を覚えていない.せいぜい次の機会には”実現しなかった汽車の計画線”を眺めることにしようと思う.

 織田のバス道ではないルートを少し歩いた後バスで西田中まで戻った.途中,宮崎村でR365から離れる旧道が「新樫津」付近にあったが軌道跡ではないようであった.R365の広い歩道が軌道跡を飲み込んだ様子であった.「新樫津」で軌道跡はR365から分かれ,県道104に入る.小さな峠越えをしたあとバスは「陶の谷(すえのたに)」の信号で直角に北へ曲がり旧佐々生(さそう)駅方面に向かうのだが,汽車は当然,直角には曲がらないので少なくともその付近の軌道は道路とは離れていたはずである.しかし先の小さな峠越えで道路の南側にやや高く平らな,土盛り,あるいは切り取りが見えたのみで軌道は分からなかった.

 以上が予備的な訪問という事になるが,02年の初冬,天気の良い日を選んでJR鯖江駅にいった.初めの予定ではレンタサイクルを借りるつもりであったが,何と冬場は雪で危ないゆえレンタサイクルの営業はしていなかった.初めから予定が狂ってしまった.後で分かったのだが武生駅には貸し出し用の自転車が駅に置いてあった.それは何度か利用したことがあるのでそれと分かるのだが,ひと駅違いで扱いが違うものだな,と感じた.道路は除雪の雪が路肩にあるものの道路自体は乾いており,鯖江駅で駅員に強く要求したら良かったかな,と思った.そういう訳で,廃線歩きは,自転車でなくて文字通り,歩き,になってしまった.JR鯖江駅から陶の谷まで歩く羽目になった.

 JR鯖江駅には西側のホームに,北側から入ってきた汽車が行き止まれる部分があり,それが私鉄の着く場所らしく今は駐車場になっている.JRの現在線に沿って道路を北へ歩くが軌道跡は全く分からない.R417がJRを跨ぐ部分に私鉄の北鯖江駅があったはずであり,そこから私鉄は西へ離れる.どうも病院の裏手の道がそれらしく,尋ねたが家が建ってしまって廃線跡は道路としてもあまり残っていないということであった.

 北へ進むと,「文化の館」という図書館がある.そこで郷土史を調べたら国鉄鯖江駅から北鯖江,これは今のJR北鯖江駅ではなくて先ほどの場所であるが,そこに駅があり西へ自然に分かれるように軌道が描かれていた.荒い地図ゆえ詳しいことは分からない.北鯖江から国鉄に乗り入れて鯖江まで私鉄が来たかもしれないし,独立の軌道があったが国鉄が単線から複線になったときに私鉄の軌道を転用したかもしれない.なにせ鯖江〜水落は62年の廃線だそうで,にぎやかな町中で鉄道遺物が残っているのはかなり困難であろう.地形から判断しようとしたが,その場合は水落までにはかなりの崖がありどうやって迂回,あるいは斜めに登ったかを想像したがまったく分からなかった.先の”文化の館”や隣接の公園が廃線跡を利用したかもしれず,図書館に良く分かるような資料があっても良いと思われる.

 さて,現役の福井鉄道水落駅は何度か車窓から眺めたことがある.それで廃線になった支線のルートは良く残っていて車窓からでも容易に判断できていた.即ち水落駅から南西へ自然に分かれる道がそれで,R417をすぐにくぐるルートである.今の流れからいうと水落駅の駐車場に至る道,といえる.その通りに歩いて西山公園野球場の北側の広い道路に出た.道路は真っ直ぐ西へ延びていてそれが廃線跡そのものであった.

 先へ進むのを一旦中断し,畑仕事をしていた人に話を伺った.鯖江へのルートは今の水落駅へは入らずにやや南を現在線をくぐって延びていたという事であった.織田でも同様の話を伺っていた.つまり織田から武生や福井方面へ行くときに汽車が今の水落駅へ入らず鯖江方面行きの場合,階段を上って乗り換えた,ということであった.水落駅の南にはそれらしい道路がある.それはR417と現在線をまとめてくぐるもので,先の野球場の北側の道路から自然に分かれていて,いかにもそれらしかった.ただくぐってからは何らかのルートで旧北鯖江駅方面へ行くために崖を降りねばならない.逆側から見てもそのルートは全く分からなかった.

 もどって西山公園野球場の北側の道を西へ進む.やや広い道を渡ったところからは,自転車・歩行者専用道路になっていた.道は登り坂になり日野川の堤防に至る.その手前に盛り土の幅が広くなった部分があった.普通は駅跡とみなされるような雰囲気であるが,駅は無かったはずで電車の待避線か行き違いのスペースかと思われた.日野川には”平成橋”が架かっている.軌道跡には間違いは無いのだが自転車・歩行者専用道路として整備したときに名前換えしたのかもしれない.橋脚はコンクリートできれいな雰囲気であったが,橋自体を作り直したということは考えにくく,模様替えの様子が分かればいいなと思った.

 軌道が自転車・歩行者専用道路になってからは,それが軌道跡そのものなので,道路の側に軌道があったのか軌道を飲み込んで道路が広くなったか,とか考えなくていい.日野川の堤防を降りきった所に「平井(へいい)駅」跡の小さな公園があった.ホームらしき高まりはあったがそれが当時のままかは分からない.線路の南側に片側のホームがあった風に見えた.看板があり鯖浦線の解説が為されていた.

 西へ進む.道が2本並んだ場所になる.南側が先の専用道である.鉄路があった頃は北側に線路に沿って道路があったことになる.途中に吉川小学校がありちょうど下校時であったので自転車・歩行者道は児童の格好の通学路となっていた.県道28の福井朝日武生線を渡ったらすぐに「川去(かわさり)駅」跡に着いた.こちらは線路の北側に片面ホームがあったらしい.平井駅跡と同様な仕様で同じ解説看板があった.

 廃線跡はまもなく朝日町の中心部を通るため,織田方面へは遠回りではあるが北西に向きを変える.軌道跡の専用道は自然にカーブしていて,元は鉄路であった事が良くうかがえた.しばらく北西へ真っ直ぐに進んだあと和田川に着く.鯖江市と朝日町の境界である.和田川に架かっていた鉄道橋の痕跡は全く無かった.対岸の軌道跡も町営野球場が出来たため軌道跡は全く残っていなかった.それから「西田中駅」の直前まで軌道跡は確認できなかった.朝日町も鯖江市同様に遊歩道くらいとして軌道跡を残しておけばよかったのに,と思った.西田中駅の直前には公園があってその北側に道路が2本並んだ場所がある.どちらかが軌道跡のようであった.

 西田中駅はバス停になった今でも駅の雰囲気があった.待合室もあるのだがもう少し鉄道の駅の雰囲気を残して欲しかった.鉄道に関する解説も全く無かった.

 西田中駅跡から西へは道路が軌道跡のようであった.延長上と総合して今の合同庁舎のグラウンドで軌道は南に曲がっていたようであった.道路脇に田がありそのそばに軌道跡と思われる部分が僅かだがカーブして残っていた.グラウンドの先では軌道跡ははっきりと道路となっていた.

 道路を南南西に進むと西側にバス道が並行して走るようになる.バス停「岩開」の南で軌道跡の道路はバス道と合体していた.延長上を見るとバス道の東側の広い歩道がまさしく軌道跡と一致していた.その歩道を南下し,しばらく行くとその歩道は無くなり軌道はバス道の東側に離れた風であった.その付近に「佐々生(さそう)駅」があったらしい.佐々生の道路標識の読みに,SASOとSASOUの2種類があるのが面白かった.

 道はかなりの登り勾配になる.軌道跡は道路ではないらしいのは分かるがたぶん東側にある軌道跡は全く分からなかった.道は山間の細い部分を通過し「陶の谷(すえのたに)駅」に向かうのだが,途中のバス停「蝉口」でバス道から西へ分かれる旧道が軌道跡らしかった.そっちを進み陶の谷駅跡を探したが分からなかった.尋ねると軌道跡を間違えていた.軌道跡はやや南側であり,駅跡はモニュメントとしてレールや駅名標に似た解説看板があった.2本の行き違いのための線路と2面のホームがあった.しかし北側からそれに至る土盛りは完全に撤去されていた.さらにその先も整理されていて分からなかった.バス停の陶の谷の西で先の触れた土盛り,もしくは切り取りがあったのみであった.以前バスで通過したときにも見れたはずだが気がつかなかった.陶の谷の信号を北へ折れてすぐ土手の上に見えていたはずである.

 陶の谷付近からは織田方面は,結局進まなかった.なんとも尻切れとんぼの廃線歩きであった.トンネルが無いのがさみしかった.