篠山口駅から福住(ふくすみ)駅までの国鉄篠山線は1972年(昭和47年)2月29日で廃線になった.
歴史的な経過を振り返っておく.
現在のJR福知山線は明治時代に大阪と軍港の舞鶴を結ぶ阪鶴鉄道としてスタートした.大阪から柏原(かいばら)までは,1899年(明治32年)に開通した.この際,城下町である篠山を通る予定であったが実現せず,城跡のある中心部から5kmも西に線路が敷かれ,そこに篠山駅が設けられたのである.当時京都から姫路に至る京姫鉄道が計画されていて,そのルートが篠山を通ることになっていたのがその理由といわれている.
さて篠山にとって不便なこの状態を解消するため,篠山軽便鉄道が1915年(大正4年)9月に開通した.篠山軽便鉄道は篠山駅の北東に隣接する「弁天駅」から城跡の北東寄りの町の中心部に作られた「篠山町駅」を結ぶ鉄道で,軽便鉄道ながら762mmのナローゲージでなく1067mmの狭軌であった.その後,1939年(大正14年)には篠山軽便鉄道は篠山鉄道と改称された.
一方,国鉄は篠山駅からの支線を福住駅まで,1944年(昭和19年)に開通させた.国鉄篠山線である.福住にはマンガン鉱山があり,その鉱石を運ぶ目的もあった.また昔の京姫鉄道の計画通り京都まで視野に入れていたかもしれない.このとき篠山の最寄り駅に「篠山駅」が設けられ,篠山駅は「篠山口駅」と改称された.篠山線の開通にともない篠山鉄道は廃止された.しかし,国鉄の篠山駅は町の中心部からはずれた篠山川の川向こうに作られたため不便であった.篠山町の中心部は城跡の北側にあり,そのあたりから駅まで1kmもあった.福知山線の篠山口駅までわずか5kmのアクセスなのにこれではいけない.福住まで線路を延ばすためとはいえ国鉄のやることは大ざっぱであった.結局,篠山線は車社会に勝てず全国的におきまりの廃線を迎えたのである.
篠山線が廃線になり篠山駅がなくなっても,福知山線の篠山口駅の名前は元に戻らずそのまま残った.今はJR篠山口駅から町の中心部にある城跡の北側を経由して城跡の南東寄りにある「本篠山」というバスターミナルまでJRバス等が連絡している.レンタサイクルは篠山口駅には無く,本篠山にあるのがおもしろいが合理的ではある.
篠山は盆地にある美しい城下町で文化財も豊富なのであるが,今回は廃線跡を訪ねる目的で篠山を訪れた.コースは篠山口駅からでなく逆の福住からにした.
1日では無理なので1回目は旧福住駅から旧篠山駅までで,2回目は篠山口駅から篠山軽便鉄道跡をたどったあと,1回目の続きの旧篠山駅から分岐駅の現在の篠山口駅までとした.
用いた地図は次の2葉である.
1:25000地形図「福住」昭和63年修正測量.
1:25000地形図「篠山」昭和63年修正測量.
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JR大阪駅9:45発の新快速で京都駅10:14着.10:32発の園部行きの山陰線の電車に乗り換える.終点園部駅で下車,11:19発の本篠山ゆきのJRバスに乗った.
客は私1人.途中,園部の街中から郊外まで2人連れが乗ったのみである.
この便は土曜運休である.土・日運休や日・祝運休は通勤通学を考えてのものであり,午後1時頃の土曜運転が通学用なのはすぐにわかる.しかし土曜だけ運休で平日と日曜は運転のダイヤは初めて見た.
道路は拡幅工事がかなり進んでいる.亀岡からきたR372に入り天引峠を越える.京都府園部町から兵庫県篠山町にかわる.平野部におりた所に西野々の集落があり,そこから地図にない国道の新道が出来ていた.バスは旧道を進み,福住11:55着.下車する.JRの車庫と小さなバスターミナルがあり,ここから私と入れ替わりに数人の客が乗った.
バスターミナルの北はすぐ国道の新道である.あらかじめ福住駅があった場所として地図で目星を付けていた所は,細い道が行き止まりになったあたりであるがそれが新道で塗りつぶされているのである.だが新道に面したJA福住の建物の脇に福住駅跡の石碑があった.石碑は駅名標を模したもので,そばに墓石のような物もあり,「福住駅跡」と彫られていた.鉄道の遺物らしい石が3つばかり放置あるいは保存されていたが,その他には何も残っていなかった.
地図にない新道を西に進む.すぐに軌道跡の土盛りが5mくらい残っているのを見つけた.何に使ったのかコンクリートの固まりが放置されていた.土盛りはもう1カ所あった.R372の旧道と新道はともに大阪の池田からきたR173に吸収され,ここからはR173を歩く.地図での軌道跡の判断では,R173がほぼ軌道跡に相当するはずであるが何も残っていなかった.200mくらいで道路は二手に分かれる.北へは籾井川に沿うR173で,もう1本はまっすぐ西に進み小さな山越えをして篠山へ至る道で,途切れたR372が復活したものである.軌道跡は地形図とそこに記入された細い道路で判断して北回りの籾井川に沿うルートであるのは明かである.手元にある1964年(昭和39年)の1/50万の地図でも鉄路はこの部分はまっすぐ西に向かわずに北よりを川に沿って迂回している様子が描かれている.JRバスは両方のルートを経由して本篠山行きを設定している.私の乗ったバスは福住からは南回りであった.
北回りの道路を進む.分岐点付近は少し地面が高くなっていたので軌道跡は道路から少しはずれているかもしれない.
500mくらいR173を北上すると籾井川に架かる橋のたもとに出る.ここから軌道跡のルートに2つ可能性があると地形図から思っていた.1つは籾井川沿いに左に円孤を描くルートで,もう1つはR173のとおり直線的に西北西に進むものである.籾井川の堤防にそれらしい痕跡がなかったので後者のルートの様であるがよく分からない.
R173は籾井川を渡って綾部方面に向かうのだが,軌道跡は地形図から明らかなように引き続き西北西に進む.栃梨の集落にはいると道路が広くなった場所に出た.駅のあった場所かとも思ったが,これはあとで間違っていたことが分かった.止置線があったのかもしれない.栃梨橋からの道が合流する少し手前の南側の路肩に鉄道の遺物があった.それは鉄塔あるいは電柱の基礎のようなもので50cm位の四角のコンクリートブロックから鉄筋がはみだしたものである.通信用ケーブルの基礎であろうか.これはこの先2カ所でも見つかった.
向井の集落にはいる.籾井川の北にある村雲の集落から橋を渡ってくる道の合流点に公園があり,そばに鉄道遺物があった.それは鉄道の廃材を利用したと思われる白い駅名標を模したもので,
と書かれていた.しかしこれは裏面で,駅前からみた方が表で,
となっていた.「ひおき」が「ひよき」になっているが,ここが村雲駅のあった場所である.村雲は1/2.5万地形図で,この福住の北隣の図葉であり,比較的大きな集落がある.駅前に当たる部分に広告付きの街灯が1本あった.鉄道があった当時は,この駅を利用した客の助けになったことであろう.
向井の集落からさらに1km,西に向かって廃線跡の道路を歩く.
北の本庄方面からの道にT字形にぶつかる.ここから廃線跡は道路でなく単なる土盛りとなり,ゆるく左にカーブした後南下している様子が地形図に明瞭に描かれている.土盛りのすぐ西に籾井川から篠山川と名を変えた川の堰堤があって,川の左岸は一見二重の堰堤があるように見える.廃線跡の土盛りはほとんど連続して残っていたが,薮で歩けないので平行する道路の方を歩いた.
本庄方面からの道が合流してから1km強で,地形図で220mの標高が記入された地点に至る.この直前に小川を渡っていた鉄道の橋部分がそのまま残っていた.しかしその手前の数十メートルの土盛りは除かれて整地されてしまっていた.
220mの標高の地点から地形図で破線の小道があるが,その延長を考えると廃線跡ではないことが分かる.200m強,南に離れた所から描かれている小道が廃線跡である.実際は地形図に描かれていない小道がすぐに見つかった.ここから廃線跡を再び歩く.
井ノ上の集落の北よりで地元のおばさんにお話を伺った.
私は地形図を持っていたので道路建設の関係者と間違えられた.
「測量の方ですか.」
「いいえ,鉄道の廃線跡を歩いているんです.ここがそうですね.」
「そうです.でもここは広い道路になるんです.」
道路が出来ると畑への行き来が危なくなる.
ここはまだ国有地である.
地元への払い下げはまだ済んでいない,等を伺った.
「この先ずっと歩いて行けますか.」
「ずっと行けます.」
実は地形図では2カ所,川を渡る所で橋が描かれていなかった.しかし実際は辻川を渡る橋も,曽地川を渡る橋もそのまま残っていた.辻川と曽地川の間は竹林がきれいで昔は列車は竹のトンネルをぬけて走っていたことであろう.先ほどの話ではここは広い道路になるので,鉄道橋のある景観は一変することであろう.
曽地川を渡った北側には3階建ての町営住宅が,南側には農協の倉庫があり,ここが旧丹波日置駅の場所である.地形図でも町営住宅と農協の建物が読み取れる.しかし鉄道遺物は何も残っていなかった.人に聞くと南側が駅の表で,町営住宅は駅の裏手になるそうだ.すぐ西からは地形図でも広い道路が描かれていて,実際もそうであったが列車の行き違いが出来たのかもしれない.ここは旧福住駅と篠山口駅のほぼ中間点なので列車の行き違いが必要と思われる.先に進むと公民館と笹川財団のプールと海洋センターがあった.プールの入口にはご丁寧にもイルカの絵が描かれている.
少し寄り道して,天然記念物「日置の裸榧(ハダカガヤ)」を見に行った.地形図に∴マークが記入されているのですぐわかった.それは磯宮神社の境内にある3本の榧(カヤ)の木の真ん中の1本である.樹高は上部が失われているため10mしかないが樹回りは5mある.樹齢は600年である.この裸榧は通常の榧と異なり実に硬い殻が無いのが特徴である.またその実を植えても通常の榧の木しかできない.この裸榧は世界に1本しかない貴重なものである.
公民館に戻る.地形図ではここから道は描かれていないが廃線跡は明瞭に残っていた.その道を歩く.西ノ堂の集落の東寄りに小川があるが,そこには西側の橋台だけが残っていた.そのすぐ北に古い橋が架かっている.どうもそれは鉄道の橋桁の様である.ただしそれは新しい鉄骨で支えられていた.
廃線跡はよく残っている.しかし,地形図で「西ノ堂」と書いてある字の西で道を間違えた.あらかじめ地形図で予測していた廃線跡はこの先のまっすぐな農道に続くはずであるのに,間違えてR372に出てしまった.とにかく廃線跡の農道に戻って先へ進む.道はじつにまっすぐ延びていて,いかにも鉄道の跡といった風情があるが鉄道遺物は何もなかった.八上の「上」の集落の北を通過し八上の「下」の北部の奥谷川の橋を渡る.
ここで1/2.5万の「福住」を終える.地形図を「篠山」に替える.
軌道跡の道は206mの標高の記入点で篠山の町中から京口橋を渡ってきた道とクロスする.さらに西に歩き,堅物橋からの道との交差点まで来た.篠山駅があった場所をたずねると,すこし行き過ぎたことがわかった.
やや年輩の人は,振り向いて,
「あそこにある黄色い道路標識のとこ.」
とのこと.具体的である.廃線から23年経っているが,鉄道は人々の記憶にはっきり残っているのであった.
今日はここまで.「本篠山」バスターミナルからバスをひろう.バスターミナルに着いたのは16:45頃であった.
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JR大阪駅10:17発の快速電車を宝塚駅で拾う.
JR宝塚駅10:41発,篠山口駅11:30着.発着とも5分位の遅れであった.
今日は時間に余裕があるので朝が遅かったが,篠山町の文化財を見るのなら,もっと早く出ると良い.福知山線の快速は30分毎の見当である.平成7年度末,つまりあと約1年後には篠山口駅までの複線化が完成する予定なので,その暁にはもっと便利になるはずである.今日の前半は,篠山軽便鉄道跡のほうから歩き,後半に先日の続きを歩くことにする.
篠山口駅を降りてすぐの小道を北へ歩く.そのあたりからJRの敷地にかけて篠山軽便鉄道の始発駅「弁天駅」があったはずである.しかし今では何も残っていなかった.地形図では,本篠山に行くバス道の北をそれとほぼ平行に小道が描かれているがこれが軌道跡である.その道はすぐ見つかった.なるほど「弁天駅」のあった場所から自然にカーブを描いている.丹南町役場の裏手を過ぎると右にカーブする.
余談になるが,丹南町役場はJR篠山口駅の駅前と言ってよい位置にある.篠山口駅も丹南町にあるのである.さらに余談になるが,国鉄篠山線の篠山駅も篠山町にはなく,やはり丹南町に作られた.ここまでいくと歴史のある篠山に失礼ではないか.
軌道跡の道はカーブした後,舞鶴自動車道の下までまっすぐである.細かく言うと始めは道そのものが軌道跡であったが,途中からは畑になっていた.私が歩いたのは畑に沿ったあぜ道である.その付近,両側はもともと畑であり軌道跡が新たに畑として追加されたために,畑の畝もその履歴をとどめていた.すなわち,軌道跡に相当する部分だけ軌道跡に沿って3〜4本の畝が走っているのである.軌道跡とその脇の畦道を除けば,ほかは整然とした畑が広がっているのに,軌道の幅だけ今でも独立の畑になっているのはおもしろい.
旧「弁天駅」から1km位で,旧国鉄篠山線の軌道跡である道路とクロスする.地形図で「吹新」という所である.国鉄篠山線は軽便鉄道をオーバークロスしていたので何か残っていないかと探したが何もなかった.ここは帰りの廃線歩きの時,再び歩くことになっている.
篠山軽便鉄道の軌道跡はよく残っている.「吹新」から500m位で左に緩くカーブする.その先だけ新築の住宅街によって軌道跡は破壊されていた.地形図では軌道跡の道は250m位にわたって消えているが,実際は小道がついていた.小道が地形図上でも復活するあたりに「東吹駅」があったはずである.東吹駅跡からは,道は軌道跡そのものの土盛りとなる.その土盛りには幅1m位の溝が付けられていた.このあたりが篠山軽便鉄道跡としてもっとも良く原形を留めていた.この良く残っている土盛りに右にカーブする場所がある.そのRはかなりきつく路面電車並であった.軌道跡の土盛りは篠山川の少し手前でなくなっていた.鉄道橋の遺物があるかと思ったが,土盛りの延長には堰が作られていて鉄道遺物は何もなかった.
軌道跡のすぐ南はバス道で,篠山川を渡瀬橋で渡る.丹南町から篠山町になる.渡瀬橋から堰の方を眺める.堰の数十メートル先に古い橋脚があった.3脚あり,はじめこれが鉄道橋の跡かと思ったが,土盛りの延長から考えて間違いである.
篠山川を渡ると一転,鉄道遺物は全くと言っていいほど無くなっていた.軌道はバス道とほぼ並行に走っていたはずである.藤岡川を渡る橋の跡も分からなかった.その先,バスが直角に左に曲がる交差点のすぐ南に「新町駅」があったはずである.
地形図で工場のマークが描かれた東よりから軌道跡の道路になる.その道路は始めは狭いが篠山城の外堀に出ると拡幅されていた.立派な篠山町役場を過ぎ外堀の東端から軌道跡は路地になり東新町で行き止まりになる.終点の「篠山町」駅の存在した場所であるが鉄道遺物は何も無かった.このあたりは篠山町の中心部であり,篠山軽便鉄道は国鉄と比べて便利な存在であったはずである.
篠山軽便鉄道の全線跡を歩いたことになる.予想以上に廃線跡が残っていて楽しかった.
城跡で休憩.眺めがよい.
今日の後半は,先日の続きの国鉄篠山線の篠山駅跡から現JR篠山口駅までである.しかし,先日の成果と地形図からの想像では,あまり楽しいものになりそうもない.交通量の多い道路歩きが多そうで気が進まないが,廃線歩きを完結しないわけにはいかぬ.重い腰を上げ先日の中断地点,旧篠山駅に向かう.
先日は気が付かなかったが,監物橋から少し南を左に曲がると自然に旧篠山駅にたどり着く道があるのが分かった.駅前あるいは駅の構内は町営住宅になっていた.先日の「黄色い道路標識」のやや東であった.
重い気持ちで交通量の多い道路を歩く.この道路は篠山口駅付近までほぼ旧篠山線の線路跡と一致することが地形図から読みとれる.ただ「谷山」付近から「吹新」まで,軌道は道路の100m位北であり,当時汽車は東城山の山麓のすぐ際を走っていたはずである.そうすると「吹新」から先がまっすぐつながるのである.道路から離れて軌道跡を探した.地形図では何も描かれていないが,あぜ道にその跡を留めているかもしれないと思ったからである.辺り一帯は畑であるが,区画整理されていて痕跡すら見当たらなかった.唯一の成果は,畑の中にポツンとある小さな小屋に鉄道の枕木が立てかけてあったことである.さらにその小屋を観察するとそばに枕木が数本と,鉄道遺物かどうか分からないが木の電柱があった.
さらに西へ進む.農作業の人がいたので,尋ねるとやはり汽車は道路から離れて山麓のすぐ際を走っていたそうだ.「吹新」の軽便鉄道とクロスする地点に着いた.今日の往路で歩いた場所である.古い軽便鉄道の方は良く残っているのに,新しい国鉄の方は痕跡すら残っていなかった.
「吹新」からは道路が軌道跡であるが,その雰囲気は全くない.舞鶴自動車道をくぐる.道路の方は,やや左にカーブした後,安田川とJR線をまとめてオーバークロスするが,軌道は現篠山口駅に向かっていたはずなので,道路から離れる道を探した.都合の良いことに,地形図にはない道が見つかった.それは,先ほどの道路から自然に分かれ,安田川に斜めに架けられた橋を渡る道である.橋は南澤橋といい,まさしくこの場所が軌道跡に相当すると想像される.ただし橋自体は新しく付け替えられているようであった.南澤橋からJR篠山口駅がよく見えるが軌道の跡を示すものは残っていなかった.
南澤橋は現在線の鉄路の高さに相当しているが,先ほどの道路面は2m位高くなっている.軌道跡は道路で完全に塗りつぶされているのがよく分かった.
JR篠山口駅に戻ったのは4時頃であった.