02年10月に東福寺駅から京阪三条駅までの地上部分と山越えのあった京津線山科駅までを歩いた.
実は京津線の方を先に歩いたのだが,それだけでは中途半端な感じだったので本線の地下化された部分を次の日に歩いた.そっちを先に書く.
阪急四条河原町駅終点で電車を降り,一番東の出口で地上に出て四条大橋を渡ればすぐに京阪四条駅の地下への入口がある.京阪電車に乗り換えて東福寺駅まで行く.地下線は,開通してすぐに大雨で水に浸かったという出来事が思い出された.
これから今来た地下線の地上部分を歩く.東福寺駅から北へ進む.線路際には道は無く次の信号で左に曲がると道はやっと線路際を北上するようになる.現線は下り坂で新幹線と在来線の鉄橋をくぐり,さらに下りながら左カーブして地下へと入っていく.
塩小路まで行くと北側の廃線跡は公園であるが,北と南を眺めても旧線の正確なルートは思い出せなかった.何度も通過しているのだが記憶とはこの程度の物か,と毎度の事ながら思った.地下化工事に際して,今歩いてきた道路を仮の線として使われたのかもしれない.塩小路の北の公園は忠実に廃線の軌道の形をしていて緩やかに左カーブして川端通に合流している.
鴨川の東を流れている疎水は,今では暗渠となっているが当時は電車は疎水を斜めに渡り鴨川と疎水の間を走っていた.その記憶は鮮明にある.今は川端通は疎水の暗渠化と線路の地下化ですごく広くなっているし,歩道も広く取られている.
七条通の交差点に地上の七条駅があった.通りの南側に北行きホーム,北側に南行きホームで信号があって,交差点での路面電車の電停のようであった.電車を降りた客は,東へは疎水を渡るし,西へは鴨川を渡る.二択であり,鴨川左岸堤防には電車の軌道しか無くて,河川敷を歩く以外に線路に沿った道は無かった.
七条駅の造りは五条駅や四条駅でも同様であった.ただ電車は路面電車と違い規模が大きいので駅員が旗を持って車を止めていた.一応,踏切なのだが遮断機の竹の棒は無かった.かえって邪魔になるのであろう.逆にいえば,人間の頭を使わないと交通整理に対処できないくらい車が多かったともいえる.
付近は廃線歩きではないが時々訪れていたので現状はほぼ分かっている.三条までは面白味が無いのは想像に難くない.寄り道して国立博物館に行った.そうでもしないと全くつまらない散歩になってしまう.
七条駅跡に戻って鴨川左岸の歩道を歩く.東西方向の断面でいうと,昔は,西から鴨川・左岸の河川敷・左岸堤防上の京阪電車・疎水・川端通,であったのが,現場に立って考えれば,左岸堤防上の線路部分が歩道,疎水の暗渠化で道幅が広くなった川端通,の様であった.地下線は,階段の長さから推定して疎水や鴨川の流れより地下深く走っている様である.
川端通の東側には申し訳程度の水の流れのある遊歩道が作られていた.柳並木が辛うじて当時の雰囲気を留めていた.
五条駅跡に着く.五条通はR1そのものであり,今となっては電車が横切っていたとはとても想像できないのくらい交通量であった.
四条駅跡.さっき地下に降りた所を通過する.交差点付近は車線を増やすために歩道の幅は狭くなっていた.
三条駅跡が近づいてきた.三条通の1本南の若松通に着く.実は本線の地下化と京津線の廃線には89年と97年という時間差がある.本線が地下化されて京津線だけが地上にあった時,若松通は京津三条駅の南端に面していた.しかし,それ以前は若松通付近より南にも宇治行きの短いホームがあった.今の京阪三条南ビルあたりと思われる.それらの東側に本線の長いホームがあった記憶がある.そういえば地下駅のホームには「宇治行きはありません」とかいう看板があったのを思い出した.地下化されたときに宇治への直通電車が無くなった模様である.
本線の方は終着駅であったので幅は広く,一番西のホームは鴨川の河川敷に出っ張っていて,河川敷からつっかえ棒状の支えが為されていた.本線は北へ向かって行き止まりであり,当然幅を広く取らねばならない.だから京津線は三条通からカーブしてすぐにホームはなくてやや南下した所にホームが作られていた.本線のホームのスペースを確保するためであり,うまい具合に配置されていた.言い換えるとスペースは狭かったという事であり,疎水のスペースも川端通のあるべきスペースも全部,駅の敷地になっていたのであった.
一方,南からの車は駅の敷地にかかると一旦東の縄手通に迂回し,京津線の電車が駅から出て東へカーブする部分で三条通に行き止まり,西か東へ曲がらねばならなかった.駅の東側にはさらにバスターミナルもあった.それも市バス,京バス,京阪バスとあったのでややこしく,車にとっては交通のネックであった.
今は川端通は広くて,北へ進むのに渋滞は少ない.迂回していた道路部分は用が無くて更地であった.これから用地をどうするのかに興味があったので工事現場のフェンスによく貼ってある看板を探したが見つからなかった.元の京津線駅付近は広いバスターミナルになって,すっきりとした感じになっていた.ただ以前は三条駅に行けば郊外行きのバスは始発が多かったが,今は出町柳駅が始発のバスもあるので注意しないと無いバスを探すことも考えられる.
私事だが,京津線の廃線で山科や大津方面から阪急方面へ帰ろうとする際ややこしいことになってしまった.
当初は路面電車の京津線の,特に東山三条あたりから渋滞でいらいらしてやっと三条駅に着く.準急なので南に向かって右側の線路に入る.しかし後はすぐ隣の本線の一番先に出る電車でひと駅,京阪四条駅まで行き,それから四条大橋を渡ってすぐの阪急の地下への階段を降りる,といった具合に,京津線の電車を降りてから阪急の入口まで,ホームへの数段の階段以外ほとんど階段の無い大変快適な乗り換えであった.切符も京津線内で四条までの切符を買えば,あとは阪急線の切符を買って阪急電車の始発に乗れば良かったのである.
本線が地下になると,京津線を降りると切符は同じなのだが一旦改札の外に出て地下の本線に乗り換え,四条で再び地上に出て橋を渡って,また阪急の地下駅へ,といった面倒な乗り換えになってしまった.歩く距離も長く階段も多くいかにも暫定の措置で不便であった.
今は,例えば山科から帰ろうとすれば,もし京阪山科駅から電車に乗れば御陵駅で地下鉄の線区になるので,もはや地下鉄の三条京阪駅で京阪には乗り換えず,そのまま御池駅まで行き烏丸線でひと駅南下し地下鉄四条駅で阪急烏丸駅にたどり着くという,変なルートになった.だいたい”三条京阪駅”という駅の名前自体,考えれば変なネーミングである.それに烏丸駅から阪急に乗る場合,込めば大阪まで立って行かねばならず,その点終着の河原町での乗り換えは便利であった.
従来通り,もし三条京阪駅で京阪三条駅に乗り換えるのなら,山科からは京阪〜地下鉄〜京阪〜阪急,というややこしくてかつ割高な乗り換えになってしまう.
京阪電車が途中で途切れているというのは,どう考えても不合理である.三条から御陵まで2重線区にでも出来なかったか,と思う.それなら京津線は単に地下化されただけで,地下鉄も一部京阪と線路を共有して走っている,という具合である.京阪電鉄はよく納得したものだと思う.
私事で寄り道してしまった.東福寺から三条まで歩いた前日,三条から山科まで京津線を歩いた事を書く.
阪急河原町駅から歩いて三条大橋を渡る.以前は京阪の特急電車がよく見えていた記憶があるので,特急のホームは一番西にあったと思われる.橋を渡れば京阪三条の北側のコンコースがあった.川端通はその部分は無かった.元は三条駅を北に出るとタクシー乗り場の西の端に高山彦九郎像があったが,景観が一変しているので今ある位置が当時のままかどうかは何とも云えない.
三条通の路面電車の軌道は完全に片づけられていた.道路はわざと2車線しか作っていなくて両側に広い歩道と2m位の中央分離帯が設けられていた.交差点では入口側を2車線にしているので割と合理的である.東山三条”電停”は地下鉄「東山駅」になった.登り坂になり徐々に山が近くなる.蹴上でインクラインを見る.地下の蹴上駅はやや東に移動した.元の軌道は蹴上駅の東側で道路の南側に沿った専用軌道になっていた.廃線後はフェンスで囲われていた時期もあったが道路の幅を早く拡げたいせいか,工事の真っ最中で軌道の痕跡はすでに無くなっていた.
電車に乗っていては分からないが,今回歩くと付近の勾配のきつさが良く理解できた.部分的には50‰以上はあろうかと思われた.後で調べると,最も急な勾配は66.7であった.
一番標高の高い九条山駅跡に着いた.何も残っていなかったし,第一,山越え区間は準急にしか乗らなかったので通過する駅の記憶はほとんど無い.
急な下りに変わり,地形が最も険しい区間になる.工事が一番遅い区間らしく軌道跡にはバラスも残っていた.坂を降りると日ノ岡駅跡であり,そのちょっと前から軌道は路面電車に再びなっていた.しかし,準急はやはり止まらなかった,というか構造上,電停には止まれなかったので現地に立っても記憶は戻らなかった.地図では右へ大石道が分かれる部分に駅があったが,さっぱり分からなかった.
500m位で元の御陵駅がありその直前から軌道は道路から南に分かれ再び専用軌道になっていた.いまは緑道の整備中でありフェンスがあって軌道は歩けなかった.地下鉄の御陵駅はどちらかというと元の日ノ岡駅に近い.山越え区間の駅の空白の緩和が理由なのであろうか.
御陵駅からの軌道は一旦バス道から南へ離れ,左カーブして角度をつけて道を北へ横切っていた.交通のネックであったろうがその記憶はない.前方にはJRの高架の土盛りが横切っている.道を渡ってから軌道跡は売られて宅地分譲されていた.何軒かは既に家が建っていた.軌道跡から道を挟んで南に地下から出てくる京阪電車の軌道が沿うようになる.軌道跡の幅は狭くなり道路が一部軌道跡になり東で現線と合流していた事が分かる.現線はそのすぐ東でJRをS字状のカーブでくぐり京阪山科駅へ向かうのであった.
線路に沿った道は無く廃線跡でもないので山科駅に向かった.山科からは始めの方で書いたが,阪急沿線へ帰るルートに悩まされる.
1.JRで京都か大阪に行く.
2.京阪山科駅から三条京阪駅で京阪に乗り換える.これはだめ.
3.地下鉄山科駅から2の様に行く.
4.地下鉄山科駅から御池駅で乗り換えて四条駅まで行って阪急に乗る.
結局,4,にした.
だがそれは今回だけは結果的に見て大変良かった.
地下鉄山科駅のコンコースに降りると駅員がカードを大々的に売っていた.「地下鉄東西線開通5周年」を祝うものであった.その日は02年10月12日,まさしく開通の記念日なのであった.全く知らなかったのでかなり驚いた.そういえば山越えの際,いかにも,”廃線歩き”風の人が何人かいたのが思い出された.
帰り,阪急烏丸駅ではかなり混雑した特急電車がやって来た.案の定であった.