加古川線の3つある枝線のうち,三木線と北条線は第3セクター化されて生き残ったが,鍛冶屋線だけは廃線になってしまった.
76年11月の時刻表によれば,野村駅から終点の鍛冶屋駅までは13.2kmで5つの途中駅があったことがわかる.駅間距離(km)を書くと,
野村〜(1.6)〜西脇〜(3.1)〜市原〜(2.3)〜
〜羽安〜(1.8)〜曽我井〜(2.1)〜中村町〜(2.3)〜鍛冶屋
である.便は13往復あり,野村から西脇止まりはさらに12往復あった.西脇市の中心部にあった西脇駅が主要なターミナルであった事がわかる.加古川駅から西脇駅までは,快速列車も1往復運転されていた.ちょっと余計だが,加古川駅から谷川駅まで加古川線を全通する列車は1往復しか無かった.
分岐駅の野村駅は現在の西脇市駅で,西脇駅が無くなったので駅名を変えたと思われる.しかし市域の中心は元の西脇駅や童子山付近であり,どうもしっくりとしない.篠山口駅のように西脇口駅とした方が良かったのではないか.ちなみに加古川線の次の新西脇駅も,市街地にはより近いのだがしっくりとしない.
02年の暮れに廃線歩きをした.
実は途中駅の市原駅は資料館になっていて,以前バスで訪れたことがある.廃線跡はすでに遊歩道として整備されている様子であった.今回は全部歩く予定である.
加古川駅で新快速電車を降りて加古川線の1両のディーゼルに乗り換える.加古川駅の高架化はどんどん進んでいるようであった.本線が高架化された後で加古川線も高架になる.従って,現在線も駅付近は近い将来には線路の高架化で廃線になってしまう.慌ただしい話である.
車窓から以前廃線歩きをした高砂線の軌道を眺めた.まだ加古川線と並行している部分で,歩いて入れないので分からなかったが,新たに鉄の桁が見つかった.加古川線と分かれる部分から,高砂線跡は遊歩道としての工事が始まっていた.今年の夏に見たときはまだそのままであった.加古川駅付近はどんどん変貌している.
1時間で西脇市駅に着いた.私はまだ野村駅の方がなじみがある.駅前は鍛冶屋線の廃線に伴ってであろうか,整備されてきれいになっている.バス停もある.以前はやや東の県道筋まで出ないといけなかった気がする.そこのバス停は今もあり,停留所の名前は「野村」である.
駅前から線路に沿って北へ歩く.小道はグリーンのカラー舗装である.自転車置き場があり,その北寄りの駅構内から出たところに踏切があって西側へ渡った.そこから北へ軌道跡の遊歩道が付いている.遊歩道は,はじめやや登り坂である.元の軌道面をある程度反映していると思われた.加古川線は右にカーブするが鍛冶屋線跡は真っ直ぐである.西側が崖の切り取りになっている部分で軌道はやや左にカーブする.
崖のたもとには石組みのある水路が造られていて,あずま屋もあって休憩できるようになっていた.崖を軌道が迂回した後,線型は真っ直ぐであり延長上に西脇駅跡にあるターミナルビルが正面に見えている.
西脇大橋からの道を北へ渡ると,”やすらぎの道”と称したアスファルト舗装の遊歩道になった.軌道は土盛りであり,すぐに2カ所,遊歩道の下に石積みの橋台が残っているのを見つけた.しかし遊歩道は,ご丁寧にも柵が高く作られていて,桁を横から見ることはあきらめた.
西側に播州織りの染色工場があり,それが尽きると小川がある.遊歩道はその部分,嵩上げされていた.小川のたもとに行く歩道があったので行ってみた.南側は石積みの橋台の上にコンクリートの橋台が嵩上げとして用いられていた.北側はコンクリートのみであった.中に元の石積みが埋まっているかもしれない.嵩上げは小川に沿った道が車が通れるようにした為である.桁は鉄製であるが,鉄橋時代そのままかどうかは分からなかった.車が通れるのはいいことかもしれないが,廃線跡とはいえ軌道の姿を変えるのは感心しないことである.ただそういう見解を持つのは少数派であろう.
小川から,元の西脇駅付近にかけては土盛りは撤去されていて軌道の幅が広い感じになっていた.
西脇駅跡の”アピカ西脇”に着いた.再開発ビルとその西側の広い用地が駅跡と思われる.ビルは2棟で,南側には神姫バスの旅行社とバスターミナルがある.バスの行き先を見ると,1番が新大阪行き,2番が三宮行きである.市内循環や鍛冶屋方面行きの3番と4番はビルの裏側であった.中国自動車道が出来て,誰も元の野村駅までバスで行き汽車に乗って加古川駅から阪神方面に出る人は少ないと思われる.
広い駅跡を過ぎると新しくて広い道である.ただしバスは通っていない.両側にたっぷりと歩道が取られている.軌道跡のその道は西脇駅跡の北でやや西にカーブした後はずっと真っ直ぐである.西にはまた染色工場があった.東側を流れている杉原川が近づいてくる.杉原川は春日神社の北側で,西にくびれている.軌道跡の道路も川なりに曲がっていた.くびれた部分には堰堤があり元の軌道面は高く改変されていた.また土地が狭いせいか,歩道は東側のみになっていた.
軌道跡はその後,市原駅跡を過ぎ,次の羽安駅までほぼ真っ直ぐである.国鉄の線路の引き方の典型である.余り人里の事を考えずに目的地までのルートを重視するやり方である.
てくてく歩いて市原駅跡を目指す.もう見覚えのある所になった.以前,市原駅跡をバスで尋ねた際のルポをネットで書いているのでそれを写す.
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再訪して,資料や写真や鉄道グッズを眺めた.鉄道の経緯や時刻表・運賃表などはメモするには膨大な量で,”播州鉄道の歴史”の内,初めの,
大正2年4月1日 加古川〜国包(現在の厄神)開通・・・
で止めてしまった.1913年のことで全通が1920年だから部分開通は7年前という事になる.古い近畿の鉄道網というパネルがあって,気がついたのは,一つは国鉄有馬線があった事と,二つめは尼崎港線の分岐が神崎駅で終点が尼崎駅であった事である.
屋外の様子をさらに記すと,駅名標があり,次の駅の羽安の読みが”はやす”であったり,古い腕木の信号や遮断機と踏切のランプがあったりという程度である.
これまでのキロ呈は4.7kmなのでまだ1/3強である.市原駅跡を後にして先へ進むとすぐにR427にぶつかる.軌道跡はそこから又,遊歩道になっている.今度は”星の遊歩道”という名前が付いている.入口にはゲート状のアーチと列車止めのレールを曲げたやつがあった.鍛冶屋線の解説看板もあった.そういえば分岐駅から廃線歩きをして,鉄道に触れた物は,資料館以外では初めてであった.しかし看板のペンキがかなり痛んでいて半分くらいしか読むことが出来なかった.
少し遊歩道を歩いて振り返って線型を見ると,R427を横切る付近で少しだけ軌道跡がS字に曲がっているのが分かった.ただし当時の軌道がそうであったかどうかは分からない.何せ広い歩道付きの道から国道を挟んで遊歩道へとトレースするので確かなことは分からなかった.大ざっぱにはほぼ真北へと羽安駅まで軌道があることになる.
星の遊歩道というだけあって付近の空は開けている.北天の星座の図も道にはめ込まれていた.遊歩道には街灯が整備されていて,それはそれで良いのだが,星を見るのとは矛盾する.
遊歩道には200m間隔で距離標識があってやや邪魔に思われたが,ジョギングする人や短距離をダッシュする人には必要なのかもしれない.しかし距離の表示は汽車用のキロポストの方が似合っている.分岐駅の野村からのキロ呈のを残して欲しかった.
羽安駅跡に着く.あずま屋・プラットホームの雰囲気の高み・レールを示す石の模様があり,駅と鍛冶屋線の解説看板があった.駅の説明には,酒米の山田錦や播州織の倉庫や貨物専用ホームがあったと記されていた.
羽安駅跡を過ぎるとゆったりと大きく左カーブである.杉原川の流れに沿ったものである.カーブの途中でバス道を横切る.そこが遊歩道の終点で,起点と同様に列車止めとゲートがあった.
バス道を横断すると,両側に広く歩道が取られた道になる.やはりバス道ではない.遊歩道が始まるまでの軌道跡が広い道路であったので,ひょっとしたら遊歩道を潰して新しい道路を繋げようという動きがあるかもしれない.車しか考えない発想からはそういう事もあるかもしれない.
羽安駅の先から続いていたカーブが終わる.90度以上方向が変わったかもしれない.ほぼ北であった方向がほぼ西に変わった.川に沿う格好で軌道跡の道路はやや右にカーブした後はまた真っ直ぐである.
西脇市から多可郡中町に入った.北側に中町の浄化センターがある.だいたいこういった施設は行政区画の端にあることが多い.センターの手前の北側のフェンスには,汽車でなく電車の絵が描かれていた.それはよく見ないと分からないと思われるが,廃線歩きをする人にとっては容易に見つけられると思われた.
センターの西隣りに曽我井駅跡の公園があった.「思い出の曽我井駅」という解説看板があり,当駅は昭和36年(1961年)に地元請願として全国で唯一開業した駅であることが記されていた.曽我井は,そがい,と読み,駅名標から次の中村町駅は,なかむらまち,と読むことが分かった.横には”みんなで守ろう国鉄鍛冶屋線”という看板が保存されていた.残念ではあるがこの看板も資料として重要である.
駅跡の南西の道端に,「中町観光案内図」という看板があった.町内の神社仏閣の他に汽車のルートや駅が記されていて,駅を降りた人の役に立つように立てられていたらしい.
軌道跡の道路は県道を横切るとやや細くなり大きく右にカーブする.だんだん周りが賑やかになり中町の中心部が近いことが分かる.カーブを終え真っ直ぐな軌道跡をてくてくと歩くと,あかね坂公園に着いた.そこが中村町駅跡で,駅名標や汽車を模した石のベンチ,枕木を転用した階段があった.
中町役場を東に見て右カーブすると,道路の延長は又遊歩道になる.今度は”水と風の遊歩道”と称している.確かに噴水と風車があった.実はやや南の道路の歩道にも名前が付いていたので,4つ目の”遊歩道”ということになった.多分これで終わりであろう.
遊歩道は土盛りの道で途中の小川に石積みの橋台が残っていた.さらに少し進むとやや規模が小さい橋台もあった.どうやら鍛冶屋線の鉄橋の橋台は,レンガではなくて石を用いたようである.
先の右カーブは杉原川を直角に渡るためである.杉原川に架かる遊歩道の橋は,”ふれあいはし”とプレートにある.南側の橋台は,やはり石積みで立派なものであった.橋にある橋脚は4本で,見かけはコンクリートであるが,それは補強されたためであり,たぶん中に石積みがあると思われた.橋の欄干にはSLの金属板が張られていた.橋脚は上流側は尖っていて,たぶん石積み時代もそうなのであろう.
橋を渡って北側の橋台を見た.こっちにも石積みは確認できたが,かなり土手に埋まった格好になっていた.橋脚間の鉄桁は高さが1.5m位ある立派な物であり,鉄道時代そのままなのであろう.塗装は94年2月で,廃線が90年なので廃線の後も手が加えられていることが分かった.
橋の北側のたもとは病院で,軌道は左カーブする.つまり杉原川を直角に渡るために,軌道は緩いS字を描いているのであった.橋を渡ってから軌道はやや左右にカーブした後,直線になる.正面に汽車が見えてきて,終点の鍛冶屋駅が近いことがわかる.
軌道脇に鉄道用の黒い用具入れ風の箱が2つ残っていた.線路のそばでよく見かけるやつで,軌道上にそのまま残る鉄道遺物はこれが初めてであった.遊歩道の終点を示すゲートやベンチがあり,軌道の幅が広くなり鍛冶屋駅跡の構内に入った事が分かった.解説看板があり,貨物は先の山田錦と播州織の他に木材があった事が記されていた.また広い木材置き場と引き込み線・給水塔や車庫もあったそうである.給水塔が残っていれば絵になると思われる.
東側の片面ホームが1両分だけ残されていて,見えていた汽車は1両であった.車体のカラーは市原駅跡のと同じであった.ホームは石積みで時代を感じさせるが表面は舗装されていた.ホームが短くなっているのは代換バスの車廻しを作ったためであり,ちょっと無粋な感じであった.
ホームには駅舎がある.駅前側つまり東側に回ると”鍛冶屋線記念館”とある.結構きれいであった.南側の駅務室は集会所風になっていて,小ぶりなコンコースを挟んで北側は待合室風の小さな部屋があり,そこは鉄道記念室となっていた.中を覗くと鉄道グッズ等が窺えた.待合室の入口のドアには鍵がかかっていて,ガラス越しに中を見ると,見学は役場もしくは近くの家へ,という張り紙が見えた.待合室に入っても展示物はケースに収まっているので結構厳重な警備であるといえる.
記念館は市原駅跡のように人を置くようなスペースではなかったが,駅務室の方も展示室にして人も常駐させてほしかった.わざわざ鍵を開けてもらうのは心苦しくて,私はドア越しに覗いただけであった.
改札があった所には出る客と入る客を分ける柵があり,それはよく見られる物だが,かなり古そうで,建物の新しさとマッチしていなかった.
駅前のアクセス道路から東に行くとバス道になっている.そのT字路付近には割烹等があり駅前の雰囲気が残っていた.駅跡の東南に隣接してバス停がある.バスを待つ間に今日の4時間ばかりの廃線歩きを反芻した.
全般的には遊歩道として整備されていたり広い道路になっていたりで,軌道があった頃の雰囲気はほとんど無くなっていた.橋の橋台の石積みを見て廃線歩きを実感したが,ちょっと物足りない感じであった.
そういえば,廃線歩きは軌道跡を探してあちこち迷うものであるが,今日は全く迷うような場所は無かった.普通は道路を歩いていても軌道跡はやや離れて平行に走っている場合も多いが,ここはそういうこともなくて逆に達成感が削がれた感じがした.
帰りのバスは,人家の多い道を通り,また市役所等にも寄るので西脇市駅まで40分もかかった.鍛冶屋線があった頃は所要時間は30分弱なので,まあまあであるが大きく変わったのは運賃である.鍛冶屋線13.2kmの地方交通線の運賃は,今の設定では多分230円だがバス賃は610円であった.バスはほぼ1時間に1本あり,頑張っているが客はまばらであった.比較して高い運賃の設定ではあるが,ローカルバスはそれでも多分かなりの赤字であろうと思われた.