JR宝塚駅から武庫川渓谷を遡る福知山線は,複線電化によってトンネルばかりになってしまった.しかし逆に渓谷を忠実に遡行する単線の廃線跡はハイキングに適する場所になっている.
同じことが京都盆地から保津峡を遡上して亀岡に至る山陰本線にも起こった.
単線未電化だった山陰本線は,京都盆地の西端の嵯峨駅から保津峡をぬけた馬堀駅まで,川が大きく蛇行した所にあるやや長めのトンネル部分を除けば,ほぼ忠実に保津川に沿って軌道が敷かれていた.しかし,ここも福知山線同様に嵯峨駅から馬堀駅までの保津峡部分は複線電化に伴いトンネルばかりになってしまった.
しかしこっちの方は,京都の保津峡という知名度の高さもあってしばらく後に嵯峨野観光鉄道というJRの子会社が観光目的のトロッコ列車を走らせるようになった.トロッコ列車は人気が高く,全指定の座席は観光業者がすぐ買い占めるようである.嵯峨野観光→トロッコ列車で保津峡遡上→保津川下り→嵐山,といった観光ツアーを組むのであろう.廃線跡が再利用されたために廃線歩きは今はもうできない.トロッコ列車が開業する前に廃線跡を歩いたのでその時の様子を記しておくことにする.また今回(1995年1月下旬)再訪したのでその時の様子も記す.
京都駅から山陰線に乗ると,電化されて部分的に高架になっているものの驚くなかれまだ単線である.京都盆地の西のはしの嵯峨嵐山駅に着く.嵯峨嵐山駅は最近改名された駅で長らく嵯峨駅として親しまれてきた.全国的に「嵐山」の地名が観光地として有名になったので,少し離れているが嵐山の地名を取り込んだのである.少し離れているといったが,それは渡月橋のそばの「芸能人の店」がある一角からみたもので,嵯峨野全体からみればごちゃごちゃした一角とは異なる場所にあるにすぎない.
嵯峨嵐山駅の駅名のパターンは他にもある.近くでは湖西線の「比叡山坂本駅」がそのパターンである.比叡山坂本駅は改名前は叡山駅でありこっちの方がピンとくる人が多いと思われる.確かに比叡山の玄関駅で石垣のきれいな坂本の町並みは近いのだが,何も駅名を2文字から5文字にすることはないと思う.別のパターンで駅名に「温泉」を付けるのもある.城崎くらい有名ならその必要もないのだが,お客の誘致に必死なのが伺えてかえっていじらしい.
さて.
嵯峨嵐山駅のすぐ西隣にトロッコ嵯峨駅がある.観光目的なので駅舎はきれいである.JRとは独立のホームがあり線路は終着駅らしく行き止まりになっている.線路脇にちゃんと0kmのキロポストがある.ところがJRの下りホームから見ると,線路はJRと独立でなくてすぐJRの下り線に合流しているのである.それではキロポストの存在価値が低いではないか.トロッコ駅の線路は何のことはない,ただの引き込み線にすぎない.1〜2月はトロッコ列車は運休なので駅舎は閉鎖されてがらんとしている.
嵯峨嵐山駅から複線になる.トンネルまでは単に単線を拡幅したものである.嵯峨嵐山駅を出た下り列車は小倉山に至り旧線は短いトンネル,新線はすぐ北の長いトンネルに入る.小倉山の山裾は楕円形なのに新線はその長軸をトンネルで貫ける格好になっている.嵐山の大河内山荘のすぐ北側に行けばトンネルの開口部を真上から見られる.新旧線の分岐からトンネルまでのわずかの所にトロッコ嵐山駅がある.人でにぎわう嵐山のごちゃごちゃした所からはこっちの駅の方が近い.以前の廃線歩きの時は旧線のトンネル入口には行けなかったが,「線路内立入禁止」を無視すれば旧線のトンネルが歩ける.
当時は亀山公園に入りしばらくして保津川の河原に下りると旧線のトンネル出口があり,そこが廃線跡歩きの起点であった.対岸に大悲閣が見える.対岸は旧船曳路で,山陰線の鉄路が出来る前,保津川が物流のルートとして使われていた頃,船をロープで陸から引っ張った道である.しかし今では川を遡上する船はなく保津川下りの観光船とカヌーが川下りを楽しむのみである.保津川下りの船は嵐山からトラックに積まれR9を亀岡まで運ばれる.老ノ坂峠をトラックに積まれて運ばれる船は絵になる.
廃線跡を1km強歩くと新線のトンネル出口に着く.小倉山のトンネルをぬけた新線は保津川とその左岸の旧線を鉄橋で跨ぎ,すぐまたトンネルに入る.新線はそのトンネルを出ると保津峡駅である.さて新線の鉄橋をくぐり先へ歩くと保津川は左に大きく蛇行している所にでる.そこで清滝川が合流しているのだが旧線はやむを得ずトンネルに入る.すなわち川の左岸にあった軌道は鉄橋で川を渡りすぐ短いトンネルをぬけ旧保津峡駅に至るのである.旧駅から見ると新駅は500mくらい上流寄りで,かなり高いところにある.旧線の嵯峨駅から保津峡駅までのキロ程は4.0kmである.新線も4.0kmであるが保津峡駅の位置が違うので新線の方が路線が直線的になったのが分かる.
廃線歩きをした時は新線が開通してすぐであったので旧保津峡駅から廃線沿いに新駅への連絡歩道が設けられていたが今は廃止され立ち入り禁止になった.代わりに保津川の北岸の道路から新駅まで新しい道路が出来ていた.保津峡駅で下車する.新しい保津峡駅はまさに保津川の真上である.鉄橋に駅がくっついている格好だ.すぐ下流側で川筋は右に直角に曲がっていて,そこに壁岩がある.駅の上りホームからはすぐ目の前である.下りホームからは上流側に屏風岩がみえ,保津峡駅は360゜渓谷が眺められる.しかもホームは川面からはるか高いところにあるのでスリルもある.
ここで少し寄り道をする.
新駅からトロッコ保津峡駅となった旧保津峡駅まで歩く.かなりの遠回りである.駅前の吊橋の所から小道があり上流側に向かって川岸に降りることができる.この河原におもしろい礫層が見られるのである.このあたりの愛宕山や老ノ坂の山体は古秩父系の堆積岩でできている.もちろん海底で堆積したものである.この河原にある礫層はひしゃげて変形しているのが観察できる.単に礫層が,後に外圧を受けて変形したものではない.たぶん,まだ礫が固まっていない時に海底地滑り(slumping)によってちぎれるように変形したのだとされている.このようにスランピングによってできた礫の固まりをスランプボール(slump ball)という.スランプボールの集まりから礫層の変形前の状態を推定してみると楽しい.清滝からここまで遊歩道があるのでハイキングのコースにしてもよい.帰りは近道して以前の新旧駅の連絡路を利用した.短いが廃線跡歩きの再現であった.
廃線歩きをした時に話を戻す.
旧保津峡駅を過ぎ新駅の下の短いトンネルをぬける.振り向くとアーチ型の鉄橋に新保津峡駅がみえる.さらにもう1つトンネルを通ると,その先にやや長い朝日トンネルがある.500m位ある.ここが唯一川筋を短絡する場所で,保津川は大きくコの字型に蛇行している.朝日トンネルの入口と出口付近から北を見れば,いづれも新線の鉄橋と愛宕山が見える.朝日トンネルをぬけると旧線は再び忠実に川の右岸を遡行する.2本の短いトンネルがあるが,その間で新線の鉄橋の下をくぐる.さらに2km位歩くと渓谷部分を出て亀岡盆地になる.南に新線のトンネルの出口が見えている.旧線は保津川の支流の鵜川を渡ったところで新線と平面クロスする.当時,新線の線路を渡ったのを覚えている.ここからは土盛りで,土盛りがなくなった所に旧馬堀駅があった.駅はそのまま残っていた.旧馬堀駅から亀岡方面をみると,新線がまっすぐ延びているのが見える.つまり旧線の方が旧馬堀駅から亀岡方面へ線路がまっすぐなのである.
すぐ北東に今の馬堀駅がある.旧保津峡駅から旧馬堀駅までのキロ程は5.4kmである.新線は3.8kmである.保津峡駅が西に移ったことを差し引いてもかなりの短絡になったことがわかる.
嵯峨駅から馬堀駅までは,旧線で9.4km,新線で7.8kmであるから1.6km短縮されたことになる.廃線歩きの時は,帰りは新しい馬堀駅から電車に乗った.トンネルの合間にちらちらと保津峡が見えるだけで8分で嵯峨駅に着いた.
さて今回,保津峡駅からまたひと駅だけ電車に乗り馬堀駅で下車した.旧線が新線に吸収される直前にトロッコ亀岡駅があった.
旧馬堀駅に行ってみたが,そこは自転車置き場になっていた.軌道の境界にはよく古くなった枕木が使われるのだが,それが3本再利用されていた.自転車置き場の角に軌道の敷地の境界を示すコンクリートの杭が地面からのぞいていた.
旧馬堀駅から亀岡方面に少し行き,保津川の支流の西川にかかる鉄橋の所に行ってみた.新線の鉄橋のすぐ南に旧線の橋台が残っていた.橋台に立ち両側の線路跡を眺めると,新旧の分岐点がよく分かるし,旧駅から亀岡方面が直線上に結ばれているのも分かる.
新線の鉄橋脇の踏切を渡り西川沿いを下り,保津川岸にでる.トロッコ亀岡駅がみえ新旧線の様子がよく分かる.
川の名前は県境などでしばしば変わるが正式には1つであって,この川もそれに従えば桂川である.しかし亀岡盆地でこの川をみて桂川といわれてもピンとこない.やはり通称の大堰川でないとしっくりしない.大堰川は亀岡盆地を過ぎ保津峡にはいると,保津川とその名を変え,さらに京都盆地にでると本来の桂川になり,天王山のふもとで木津川と鴨川と合流して淀川となるのである.
この亀岡盆地の東の端に立ってみると大堰川はわざわざ山の中にはいって保津峡を形成しているように見える.川は低きに流れるのにこれは奇妙にみえる.実はこの愛宕山や老ノ坂の山体は川筋が出来た後で出来たものなのである.つまり自然に流れていた川筋を遮るように土地が隆起したのである.ただこの場合川の侵食の方が山の隆起の速度を上回るので,川の流れが止まることはない.川のそういった場所を先行河川といい,きまって渓谷が形成される.たとえば大和川は奈良盆地からわざわざ生駒山地につっこむように流れているが,これも同じ事情である.
鵜川の鉄橋をくぐり旧線の跡を眺めた.土盛りはかなり残っているが所々撤去されている.満足した気分で馬堀駅をあとにした.