福知山へは時々訪れる.駅は高架化の工事中である.また,電車の車窓からも見えるが,お城が再建され城内は郷土資料館になっている.だがそこ以外に福知山市文化資料館という施設もある.元銀行の建物で,以前は公開されていたのだが今は公開していない.ただ同じ建物の1階に最近,福知山鉄道館,通称”ポッポランド”という施設が出来た.無料なので,WEBで書いている.以下に内容を写す.

★福知山鉄道館
 福知山駅から北東へ徒歩15分で上記の福知山市文化資料館と同じ建物の1階に98年に出来た.建物は元は京都銀行の建物で金庫もそのまま残っている.福知山駅付近の忠実な鉄道模型がありお金がかかったそうだが,駅の高架工事が進んでいるので記録として残しておくという意味がある.他に廃線になった北丹鉄道(福知山〜河守)の写真等の展示がある.木曜休み.

 廃線跡に興味があるので北丹鉄道の資料を興味を持って見たわけであるが,とうとう03年春に廃線歩きをした.

 福知山駅から廃線歩きを始めた.先を急ぐ気持ちがあったので鉄道館を再訪することはしなかった.これが失敗であった.北丹鉄道は由良川の河川敷を走っており,廃線後,由良川改修のため軌道跡が使われたことは覚えていたのだが,何となく,軌道跡は分かるだろうという気持ちで歩き始めてしまった.

 玄関に動輪が置かれたJRの建物の横を線路に沿って西へ進む.小川に古い橋台がペアで残っていた.後で調べて北丹鉄道の物であるのを確認した.よく見ると,橋はJRやタンゴ鉄道と並行ではなく西に向かってやや北寄りになっていた.これは帰りにタンゴ鉄道の車窓からも見えることが分かった.立って窓際で注意してみると分かる.JRからはフェンスが邪魔で,多分見えないと思われる.

 やや北の道路の北側の交差点に京都新聞の建物があるが,そこから北への道は明らかに軌道跡だという事が地図で分かる.滑らかな一定の右カーブの道を歩く.さっきの橋台ですでに北へ向かって曲がり始めていることが分かった.道が直線になるとすぐ軌道跡は無くなる.延長上に軌道跡が道路になっている部分が窺えるので大体の見当をつけて歩いた.途中で小川を横切るが,軌道の延長辺りで小川が微妙にS字を描いている.橋が架けやすい配置で偶然にしては良く出来ている.

 昭和小学校の裏の道で,給食センターの北隣りに公園があってそこが福知山西駅跡である.以前に偶然見かけた事があるが,その時は余り関心が湧かなかった.

 公園には,北丹鉄道本社跡の石碑と駅名標の復元された物があった.福知山西駅は福知山駅の次の駅であり,さらに次の駅は「しもかわ」なのが分かる.駅名標の裏に沿革が記されていたので写す.

 大正 9.12. 1 北丹軽便鉄道株式会社創立(資本金150万円)
 大正10.12.25 北丹鉄道株式会社と改名
 大正12. 9.22 営業開始,福知山−河守間12.4km
 昭和46. 3. 1 48年間にわたる営業休止
 昭和46.12.18 福知山開発公社に土地売却
 昭和49. 4. 5  会社解散
            昭和58年11月30日
            (財)福知山開発公社建立

とあった.

 余計だが”48年”という字が大きく書かれていた.書いた人の思い入れが感じられた.公園のその場所はプラットホームであり,屋根の柱風の痕跡も残っていた.これは後で写真を見て,駅の屋根ではなく,後で置かれたSLの屋根の基礎であることが分かった.北側が軌道であったらしくレールと枕木があった.枕木はPCと木が混じっており復元された物かもしれない.

 そこから北は道路が軌道跡ではなく,その西北側が軌道跡であった.それは駅にある付近の案内図でも明瞭に分かった.地図で2本の道は,お互いの延長がずれていた.軌道跡は,家が2軒分くらいの幅であった.本社のあった駅であるが他に待避線等の名残は感じられなかった.

 道は直線の後左カーブし,モータープールにぶつかって終わっていた.やや北の”さんさん通り”から軌道跡は全く判別できなかった.

 由良川左岸の堤防を何となく歩いて北上したが,後で調べたら現在の左岸堤防の外側の基部辺りが軌道跡らしい.しかし水道関係の施設で入れない部分もあった.新音無瀬橋のたもとに着いた.北には西から和久川が合流していて下荒河橋があって,西の車道まで遠回りしなくても北側に行けたが,橋の東寄り辺りに軌道が通っていたらしい.橋は昭和47年3月完成とあり廃線後,堤防の改修に伴って架かった物と分かる.ただ橋の桁は里道の橋にしては立派で鉄道橋の様であった.ひょっとしたら転用したのかもしれない.

 北を見れば畑で,正面は漆ヶ端という地形が険しい場所なのが地図で分かる.だが軌道跡の痕跡は全く無くなっていた.

 漆ヶ端でバス道が合流し,付近は道路の土手が堤防の代わりになっていた.合流部は路面がやや高くなっていて,河原側にやや構造物がある感じであった.後で鉄道館で調べたら道路から川側のやや低くに軌道面があることが写真で分かった.坂を下って,バス停「下川」に着いた.駅があった場所らしい.実は日を改めて調べたのだが,大江町の図書館で旧R175と付近の地図が閲覧できた.72年に出版された”京都府遺跡地図”がそれで,駅は何故か「しもかわぐち」となっていた.駅名変更があったらしい.漆ヶ端の崖の東側には護岸の記号も明瞭に描かれていた.旧R175はずいぶん狭くジグザグに走っていたようであった.

 そこから北は新しい道路で軌道の痕跡は感じられなかった.旧R175は里道として東側に残っていた.道路は牧川を,道路橋らしく中央がやや高くなった天津橋で渡る.98年の完成で同じ場所にあったらしい鉄道橋の痕跡は無かった.ちなみに福知山から西の山陰線は牧川を遡って和田山方面に向かっている.

 正面に天津小学校の建物が見えているが,付近に上天津駅があったそうである.東側に歩道というか里道があり軌道跡が部分的に残っているのかもしれない.また何やら境界のコンクリートの折れたのが転がっていて興味をそそられた.道路は左カーブしてR175に直角にぶつかるが,カーブの手前からの延長が国道なので,単純な延長が軌道跡らしい.道路の合流点の東は更地であった.そこから北で地形が険しくなる.

 バス停「天津大仙」のそばにガソリンスタンドがあり,付近に道路より東側の河原のほとんど無い部分に何か道路より低い位置にフラットな面が少しだけ窺えたが,それが軌道跡らしいことは後で分かった.情報不足がたたって国道の西側にある歩道を何となく歩いただけで軌道跡は見つけられなかった.

 大呂川が合流する手前に下天津のバス停があり,そこは駅跡の雰囲気があった.すぐ西には現在の下天津駅が高架上にある.後で分かったが1回目は全然見当違いで,道路の西側にある歩道を何となく歩いただけであった.国道の歩道を歩くのが目的ではないのに,それまでの発見がほとんど何も無かったので油断していた.2回目はタンゴ鉄道で福知山から下天津駅まで乗り,やり直した.資料を見て未発見の物を確認し,何というか,宿題を片づけた,という感じである.

 大呂川の鉄橋はすぐに分かった.低い位置にあることも実際に見て確認できた.その南側にあった下天津駅の場所も地元の方に聞いて正確に分かった.畦に痕跡が窺えた.2回目も初めは国道の西側の歩道から,車の合間を見て時々東側の様子を窺っていたが,河川敷に新しい舗装された小道が出来ていたのでそこを歩いた.

 花倉川の橋台が確認できた.桁はなく,橋台に2m位嵩上げして何やらケーブル用のパイプが渡されていた.嵩上げは国道の高さまでされていて,逆に云うと軌道面はそれだけ低かったことになる.

 やや北で大江町に入る.1回目,歩道を歩いた時に見たのは,古い道しるべがあり「従是北丹後國加佐郡」と読めた.付近の歩道は広く取られていて軌道跡と間違えたのも無理からぬ事かもしれない.

 2回目に河川敷を歩いたら,1回目にくぐったトンネルが見えていて,国道の東側に軌道跡が明瞭に残っている部分もあった.ただそれは完全ではなくて国道の拡幅のせいか東側半分くらいの感じであった.低かった軌道面は国道に対して同じくらいになっていた風で,京都交通のバス停「境川」があった.見るとバスは1日に1本しかなかった.

 その付近で軌道は旧国道を東側から西側へと踏切で渡っていたらしい.地形で窺えたが,後で例の地図でそうなのが確認できた.

 1回目と同じようにトンネルをくぐった.1本目は正面や内部がレンガ積みで下部はやや埋められていてコンクリートで補強されていた.やや右カーブしているが両側の入口の切り取り部分はかなり破壊されていた.今後,道路が拡幅されればトンネルは壊されるかもしれない.

 すぐに真っ直ぐな2本目のトンネルである.こちらは軌道面は埋められずに馬蹄型のトンネル断面が良く残っていた.1回目にトンネルの中に3艘の木造の川船が置かれていたのを見たのだが,2回目は船底を修繕している人に出会った.伺えば3艘とも現役で鮎漁が主との事であった.

 トンネル北側の軌道跡のことも伺った.北にすぐ見えているドライブインの所に踏切があり,軌道はまた道路の東側に移っていたそうであった.これも図書館の地図で明瞭に記されていた.この交錯していた状況を廃線と国道の拡幅について詳しく調べれば面白いと思う.

 北を見るとタンゴ鉄道がR175を跨いで東側に移っているのが見える.タンゴ鉄道の土盛りは由良川の護岸の一部を形成しているようであった.1回目に歩いたときは,疲れてきたせいもあって単純に歩道を歩いただけであった.廃線跡はこんなものか,と勘違いしていた.

 2回目で公庄の体育館の南側にあるレンガ積みの橋台と桁を見つけた.1回目は単純に国道の西側の歩道を歩いただけで,タンゴの駅を見ただけであった.体育館は1階が駐車場でフロアは2階である.玄関に昭和28年9月の13号台風の際の洪水の水位が記された看板があった.それは体育館の2階フロア面位あった.体育館は天井が高いので相当な水位である.足元の北丹鉄道の桁の高さと比べて相当なギャップがあった.汽車はその天井以上にまで水が来ていたことになる.

 話は飛ぶが,福知山駅の北徒歩10分に御霊神社があるが,そこにも水位の看板があるので機会があったら注意して比べると良い.福知山市は内陸部の盆地であるが,標高がいかに低いかが分かる.さらに,余計だが福知山線の途中の石生(いそう)駅付近では本州の中央分水界として最低標高の95m付近を電車は通過している.

 さて,国道の歩道とタンゴ鉄道をくぐる里道への道を歩いて,京都交通の車廻しに着いた.1回目は「河守(こうもり)」行きが終点から回送されたバスがいた.「大江駅」行きでもなく,また終点でもなかった.後で大江町の図書館で伺えば,「河守」は由良川の中継地としての船着き場として栄えた土地柄であった.”川を守る”という語源があるらしい.2回目は別の便のバスが出発を待っている時で,「河守経由西舞鶴」行き,であった.バスは由良川に沿った道を北上するらしかった.

 少し行くと又タンゴ鉄道をくぐる里道があり,そこにも洪水水位の看板があった.どうやらタンゴ鉄道の土盛りの高さは,その時の水位を参考に設定されたようであった.

 さらに少し北では「蓼原村の小さな家」と称する丸太小屋があり,後で調べればそこが蓼原駅のあった場所であった.またすぐ北の小川には橋台が南側だけ残っているのを確認した.路盤面がすごく低いことも見て初めて理解できた.

 国道に並行していたタンゴ鉄道は東側へ離れる.大江駅が見えている.北丹鉄道の軌道は国道に沿って,といっても拡張されているので正確ではないが,進んでいたのが鉄道館の写真で分かった.現場でもそれらしい跡があるようにもみえる.河守駅は京都タクシーの営業所と駐車場,さらにその北の大江駅前にかかって存在していた様であった.

 思えば大江駅前は不思議な構造をしている.駅の西側に鬼瓦公園があり,その西に商店が線路と並行に2列並んでおり,これも北丹鉄道から北近畿タンゴ鉄道へと移行した際の区画整理の名残であろうか.

 何度も出てきた大江町の図書館は,小さな駅ビルの北隣りの役場の中にある.地元の人間でないと分かりにくいが,また機会を見つけて資料探しをしたい.さらに福知山市の図書館は駅からお城に行く途中にあり,郷土資料は申告しないと入れぬ場所にあるが,そちらも時間をとって調べたい.