●「敦賀」〜「新保」 (5.9km)

 敦賀からJRバスの新保行きに乗る.このバスは,廃線になった杉津経由の鉄道の代償である.ただし途中の「葉原」から旧杉津駅方面へは向かわずに,木の芽峠方面の新保が終点である.

 敦賀駅前のバス停の案内板には木ノ本駅のと同様に刀根方面の絵の先に消した痕があった.以前通っていた敦賀駅〜木ノ本駅間の柳ケ瀬経由のバス路線であった.正確には行き先は「木ノ本」でなく,柳ケ瀬トンネルを出た所の「雁ケ谷」であった.時刻表にも一行分消した欄があった.行き先と9時台と15時台の便の部分が消されており,以前は「雁ケ谷」行きの1日2本のバスの便があったことが分かる.

 新線は,敦賀を出ると2km位で木の芽川を渡り北陸トンネルに入るが,旧線はその直前から木ノ芽川を忠実に遡る.その分岐点は北陸自動車道をくぐる所であり,木ノ芽川を挟んで北陸トンネル入口が見えている.バスの走っている道がR476で,それがそのまま廃線跡である.「樫曲」の町を過ぎるとバスは廃線跡のトンネルを2つくぐる.単線のトンネルなので対向車線は別に作ってあった.幸いなことに,新保方面行きが廃線のトンネルをそのままくぐり,反対方向が迂回路である.これは地形図で予想していた通りであった.2つ目のトンネルを出てすぐ,JR北陸トンネルの1番目の斜坑入口への道があった.案内の看板があったが,一般の人間には無用である.

 キロ程からみて旧新保駅は「獺河内」(うそこうち,うその右は本当は頼)の町付近にあったはずである.町の名前からすると,昔はこのあたりにニホンカワウソがいた様である.獺河内でバスを下りた.

 バス停の手前に何か石碑が見えたので行ってみた.石碑は新保駅跡を示すものであった.駅の構内の詳細を示す縮尺1/500の石版もあった.駅には引き込み線を除けば3線と2面のホームがあり,木の芽川にかかる橋から南側に駅の構内が広がっていたことが示されていた.石碑の裏に解説があった.

 敦賀〜今庄間は1895年(明治28年)に開通した.しかし,この地に駅は作られず1908年(明治41年)交通量の増大に対処するため,まず信号所が設けられた.1916年(大正5年)5月,信号所は駅に格上げされた.駅の名前は「新保」であった.しかし,このルートのバスの終点である新保の町はずっと先で軌道のルートからもはずれている.なぜ獺河内にある駅に新保の町の名が使われたかは分からない.



●「新保」〜「杉津」 (7.0km)

 上り勾配が急である.この25/1000の勾配をなくすため北陸トンネルが掘削されたのである.葉原のバス停の所から分かれる道に,JR北陸トンネルの2番目の斜坑の葉原斜坑入口の看板があった.地形図で見ると斜坑入口あたりには建物が数棟あることが示されている.長大な北陸本線に対処する保線用の設備の規模がうかがえる.

 葉原のバス停の小屋を覗くと,今の時刻表と共に昔のバスの時刻表がそのまま残っていた.バスの便は半分以下になっていた.ここまでは北陸自動車道の北行きとほぼ平行に廃線跡の道路は延びている.葉原の町では高速道路は町を挟んで山腹を通っているのがよく見える.なおこのあたりの北陸自動車道は上下線が逆で北行きが東側を走っている.

 敦賀から新保行きのバスは葉原で軌道跡と分かれる.地形図で葉原から北に自然に分岐している道が廃線跡である.葉原を出ると登り勾配はようやく尽きた.北陸自動車道の北行きが再び寄り添う.山間部のわずかな平地に田んぼがあり,西から高速道路の南行きが近づいてきて間に廃線跡を挟む形になる.そして葉原トンネル(1.0km)に入る.廃線跡は単線であったのでもちろん1車線しかない.6分間隔の信号があった.葉原トンネルにも柳ケ瀬トンネルと同様に碑文があったが,今は外され,先に述べた長浜の資料館に展示されている.こちら側(南側)は「興國咸休(こうこくかんきゅう)」で,出口(北側)は「永世無窮(えいせいむきゅう)」である.

 今度は,柳ケ瀬トンネルの時と違い,歩行者禁止ではなかった.しかしやはり危ないので信号待ちの車にトンネル内だけ便乗させてもらった.交通量は,柳ケ瀬トンネルほどではないが大型トラックも時々通っていたからである.歩くなら懐中電灯が必要である.葉原トンネルは緩やかではあるがすでに下り勾配であった.地形図で見るとトンネル入口あたりの標高は200m位であった.葉原トンネルを出ると視界が開けた.敦賀湾が美しい.海岸に阿曽(あぞ)の町が見える.まだ見ぬ旧杉津駅からの眺めはこんなものであろうか.あと2km位歩けばその答えが出るはずである.

 葉原を出てからは人家はなく,もちろん歩行者もいない.しかし高速道路の交通は頻繁であるのが見えるし,廃線跡の道路も時々車が通っている.ここは田舎なのだが何か不思議な気分になる.こんな山の中にもかかわらず,すぐ近くに見える高速道路の車の中の人間と私の間には,何の関係もないのである.

 葉原トンネルを出ると今度は北陸自動車道の南行きに寄り添う.北行きは頭上遥か高いところを通っていて,すぐに杉津トンネル(北行き,1.2km)がある.高速道路の南行きが目の前にあり邪魔だが眺めはよい.途中2カ所,土砂崩れ防止用のコンクリート塀があったが作りが古く当時のままのようであった.ごく短いトンネル,そしてやや長い400m位のトンネルをぬけると,すぐに南行きの杉津P.A.である.トンネル内で1台だけ車と遭遇した.懐中電灯で合図したら徐行してくれたが少し怖かった.最低こちらの存在を懐中電灯で示す必要がある.南行きの高速にも平行して杉津トンネルがあるが,北行きのそれとは異なり,長さはわずか460mであった.

 南行きの杉津P.A.の所に旧杉津駅があったはずであるが,高速道路が出来たために全く痕跡をとどめていなかった.歩いてきた軌道跡の道も不自然に曲げられ付け替えられていた.地形図によれば旧杉津駅の標高は170mくらいである.高速の南行き線が背後のはるか高いところに見えていた.

 高速道路で景観は一変したが「杉津」駅からの敦賀湾の眺めは,今も昔も変わらないはずである.ただもっと標高のある高速の北行き線の杉津P.A.からの新しい景観の方がもっと良さそうであることが想像できた.

 廃線歩きを中断し,景観を堪能した後,杉津の町に下りた.車道もあったが,地形図で幅員1.5〜2.5mの実線の道が杉津の町まで付いていたのでそれを下りた.昔の駅までの連絡路だと思ったからである.しかし,R8まで下りて地元の人に聞いたら私の下りてきた道は新しい農道であることがわかった.昔,駅まで通じていた道はもう少し南よりの,地形図では途切れている道であることが分かった.一番南寄りにある車道は,当時はなかったそうである.この先は日を改めて,地元の人の気持ちになって,旧来の小道を旧杉津駅まで登り,それから廃線跡歩きを続ける予定である.

 杉津の町を散歩した.釣り宿が多い.「丁持屋」という屋号が目につく.この町には,丁持屋姓の方が多いようである.



●「杉津」〜「大桐」 (8.2km)

 旅を再開する.

 敦賀駅からバスで杉津へ戻り廃線跡歩きを再開する.今度は学校の裏手から橋を渡って延びている当時の駅への連絡路をいく.地形図にある幅員1.5m未満の小道である.舗装されていて農道として利用されていた.地形図では行き止まりである.行き止まりとなっている場所から,古風な石畳が続いていた.汽車に乗るため坂を上っている感じがする.しかし,今はほとんど人は利用していないようである.

 旧杉津駅まで行けると踏んだのだが,甘かった.小道はあとちょっとの所で道としての痕跡がなくなっていた.強引に道のないところを登り杉津駅跡にたどり着いた.この分では今日は前途多難な予感がする.

 廃線跡歩きを再開する.ここからの軌道跡は,北陸自動車道と分かれて海よりの山腹をトラバースするように進んでいる.トンネルも山中トンネルが1.2kmとやや長いだけで,そのほかは短いものばかりである.旧北陸本線の跡という事を知らなければこの山の中の細い道は何なんだ,と思うにちがいない.

 杉津駅跡から1.5km位はトンネルがない.眺めは大変良いがかなりの登り勾配である.途中に鉄道遺物と思われる大きなコンクリートブロックがあった.トンネル区間に入る手前にかなり高い土盛りが築かれていた.緩やかな谷なので鉄橋にせず土盛りにしたようであった.さらに枕木も2本見つけた.

 これからトンネルを6本通ることになる.車は5分ごと位にしか通っていないのだが,大型トラックが混じっている.車が邪魔であるがそれを除けば山間部の廃線歩きが楽しめそうである.

 トンネルの1本目は短く,やや右曲がりである.出口が見えているので簡単に通過できた.トンネルを出てすぐに2本目があり,今度は300m以上ある.やはり右曲がりで,しばらくは真っ暗であった.しかし中間点では入口と出口の明かりが確認できた.緩やかだが,依然上り坂である.

 中で1台トラックと遭遇してしまった.懐中電灯で積極的に合図する.トラックだとそれだけで単線のトンネルはいっぱいになるので,壁に張り付くように避けねばならない.次の3本目も300m位である.今度は右曲がりで,道は平坦になった.このあたりはトンネルを出るとすぐまたトンネルである.

 軌道は地形に忠実に,谷を詰めたところだけトンネルから顔を覗かせ,尾根毎に比較的短いトンネルで次の谷へと敷かれているのであった.トンネル間の短い軌道跡からも敦賀湾が眺められた.4本めのトンネルは300m位で,まっすぐでわずかに登り勾配である.出口は見えているのだが懐中電灯が必要である.

 5本目はやや長く500m位ある.右曲がりでちょっと危険な感じである.車は多くはないのだがトラックはイヤである.ずっと歩いてきたので車のパターンが分かってきた.車の流れを決めるのは次のもっとも長い山中トンネルである.長さは1.2kmある.このトンネルも単線分で対面交通が出来ないので,車はランダムには流れていない.どっちからでも山中トンネルに車が入ったならその車がトンネルを抜けるまで対向車はトンネルに入れないのである.従って同じ方向の車がトンネルに入った直後,もしくは対向車がトンネルから出た直後にトンネルに入れば車に出会う確率は少ないのである.5本目は運良く車に遭遇しなかった.中はわずかの登り勾配であった.

 6本目がいよいよ山中トンネルである.山中峠を越える長いトンネルで,地形図には峠越えの小道が描かれている.敦賀市と今庄町の境界である.廃線歩きの計画段階では,最悪の場合この峠越えをする事も頭にはあった.トンネルの入口には信号がなかった.柳ケ瀬トンネルや葉原トンネルと同様にこのトンネルにも信号があると想像していた.現地に立ってみると理由は簡単であった.トンネルは大変長いのであるがまっすぐであり,出口が見えているのである.信号はなく,「対向車確認」の看板があった.これならどうにか歩いて行けそうである.なお峠越えの小道の踏跡は確認できなかった.敦賀湾の眺めはこれで終わりである.トンネル入口の標高は250m位であった.トンネルからは湧き水が流れ出ているので,トンネルはやや登り勾配であることが分かる.

 トンネル入口に石碑があった.
 「南無阿弥陀仏」
 「明治廿九年七月」
 「第十二号隧道工事中為死七者」
とあった.

 トンネル自体にも石碑があったが,やはり外され,同様に長浜の資料館に展示されている.こちら側(杉津口)が「効和干時(こうかかんじ)」で,向こう側(山中信号所口)が「徳垂後裔(とくすいこうえい)」となっている.

 同一方向の車がトンネルに入った直後,意を決して中にはいる.

 所々天井からの滴がかかる.出口の穴がなかなか大きくならない.トンネル通過に15分かかった.遭遇した車は順に,前から1台,後ろから1台,後ろから1台,前から3台,後ろから1台,であった.

 山中トンネルの出口が「敦賀」〜「今庄」間の最高地点で,地形図によると標高280mである.トンネル出口で振り返ると,なんともう1本トンネルがあった.地形図にもよく見ると南隣の少し奥まったところに,それらしいものが記入されていた.このルートを複線化する工事が,いったんは始まったことが分かる.想像するに,北陸トンネルの構想が浮上する前に既存のルートの複線化が先行的に始まってしまい,とりあえず一番長いこの山中トンネルから工事が始まったものと推定される.しかし,ここ以外に工事が始まった痕は確認できなかった.ちぐはぐだが,鉄道建設ではよくあることである.敦賀の南,「近江塩津」〜「新疋田」間の深坂トンネルも単線のトンネルが2本,あまり間をおかずに建設された.北陸本線の近代化において複線化の先行投資がなされなかった一例である.

 山中トンネルを出たところから急な下り坂になる.勾配は25/1000で,これは旧大桐駅まで続く.トンネル出口から200m位で山中峠越えのルートがあった.こっちは杭の標識もあり踏跡もしっかりしていた.さらに250m位で広域林道入口である.立派な看板があった.栃ノ木〜山中線といい15.5kmあるそうである.地形図には完結して描かれていないが栃ノ木峠付近のR365までつながっていることが看板から分かった.さらに林道入口から反対側にも林道が建設中であった.

 林道分岐から500m位にシェルターが地形図に描かれているが,その手前にどうやら汽車の行き違いをしていたらしい場所があった.すなわち本線の北側に待避線らしい場所があって,シェルターの上あたりまで場所が確保されていたようであった.

 さらに約2km下って大桐の町に着いた.杉津の町以来の人家である.大桐の町はもう山の中ではなく平野が望める所である.そこまで所々の道ばたに角のとれたバラスがかなり転がっていた.気分の良いハイキングであった.

 キロ程からみて大桐駅のあったのは大桐の町より700m位先の地点である.大桐駅跡を捜す.地形図のそのあたりに一軒家が描かれているが,その東隣にモニュメントがあった.駅名標を模したもので「大桐駅跡」とある.碑が立っている場所は駅のプラットホームにみえる場所の上であり,ホームは当時のままのようにみえた.碑の裏に旧北陸本線と大桐駅の沿革の解説があった.

 「敦賀」〜「今庄」間は1895年(明治28年)の開通であるが,この場所には1908年(明治41年)3月1日,まずスイッチバックの大桐信号所が開設された.そして同年6月1日,信号所は停車場に昇格したのである.当時は,1日に旅客7本,貨物6本の計13往復の列車ダイヤが組まれていたことが記されていた.

 私の来た方向とは逆であるが,上り坂で当時の様子を簡単に述べる.金沢方面からの汽車はいったん行き止まり,北側へバックして高度を稼ぎ,大桐駅のホームに入っていたことが図で示されていた.そして,汽車は25/1000の勾配を山中トンネル入口までずっと上っていたのであった.

 このあたりの鉄道遺物はほとんどなかったが,橋に跡を留めていた.すなわち,大桐の町中と大桐駅跡の東に2カ所,計3カ所の鹿蒜川に架かる橋を見ると,鉄道時代の橋の橋台の基礎が部分的にそのまま利用されているのがわかった.大桐の町中の橋には,さらに電柱の基礎のようなものが2個残っていた.

 その3番目の橋に被さるように北陸自動車道が横切っている.今日の歩き始めの杉津駅跡から軌道跡の方は北陸自動車道と分かれ,地形に忠実なルートをとっており,それを歩いてきたわけであるが,一方北陸自動車道の方は,杉津P.A.から敦賀トンネルと今庄トンネルで直線的に進み,今庄I.C.に至るのである.トンネルを節約した旧北陸本線のルートはあまりにも遠回りであったからだと思われる.軌道跡が北陸自動車道を横切った場所は,高速道路の方からいうと今庄トンネルの南出口のすぐの所である.

 軌道跡と北陸自動車道は再び分かれ,高速の方は今庄の町中を避けトンネルに入るのであった.今庄I.C.は北陸本線でいうと今庄の次の湯尾駅に近いのである.



●「大桐」〜「今庄」 (5.3km)

 大桐駅跡を出て,先ほどの3本目の橋を渡るとすぐに北陸自動車道の高架の下をくぐる.上新道の町の入口で右から木の芽峠からの道が合流する.そのあたりから道は1km位まっすぐで,延長上に北陸本線の列車が頻繁に通っているのが見える.上新道と下新道の町の中間の橋も先の3本と同様の鉄道遺物があった.下新道の町からは,すぐ南に北陸トンネルの出口が見えた.

 さらに500mで新線開通で新設された南今庄駅の駅前に着く.このあたりは廃線跡の道路と新線が並んでしばらく走っているのである.旧線は南今庄駅と今庄駅の間で山裾を迂回しているが,新線は今庄トンネルを通る.そのトンネルの出口付近で旧線の道路が自然に新線に合流するようになった場所がある.敦賀から山間部をぬって通っていた旧線の廃線跡はそこで終わるのである.

 さらにこの先,今庄駅と湯尾駅の間の湯尾峠にも線路を直線的にするためにトンネルを新設した所がある.  新線の北陸トンネルはあまりにも大規模であり,どこを通っているかは今きたルートからは想像もできない.しかし,JR大阪環状線の弁天町駅の駅前にある「交通科学博物館」には北陸トンネルの模型があり地下のどこを通っているかが分かる仕組みになっている.

 今,列車は北陸トンネルを10分位で通過するが,時間としては長いと云うべきか短いと云うべきかわからない.私はこのトンネルを通過する毎に「急行きたぐに」の事故を思い出して少し緊張する.と同時に,この上を歩いてみたいと思っていた.今回,峠越えというにはあまりにも大規模な廃線歩きが出来て大変満足した.

 「杉津駅」の眺めはやはりすばらしかった.



●あとがき

 上記は,1995年春に現地を訪れた様子を自分用の記録として書いたものです.今回,このページに載せていただくことになりました.従って,内容はかなり古いものになっています.その点,ご容赦下さい.それとあまり旧国鉄などの資料を調べずに,百聞は一見にしかず,風に行動したので専門家(?)の方々から見れば間違いなども気になるかもしれません.その点もご容赦下さい.

 その後,最近になって敦賀市立博物館で分かったことがあります.それは山中トンネルの勾配22.5/1000だったことです.私は”やや登り坂”と書きましたが,トンネルの中故に勾配の感覚が違っていたようです.