北陸本線は,昭和30年代に輸送力増強のため大規模な工事が行なわれた.それは複線化のための新しいトンネルの掘削や,勾配の緩和のためのルートの変更などである.現在,米原から下りに乗り,木ノ本駅から順に駅と駅間距離(km)を挙げると,
となり,「余呉」〜「近江塩津」間に余呉トンネル(1.7km),「近江塩津」〜「新疋田」間に深坂トンネル(5.2km),「敦賀」〜「南今庄」間に北陸トンネル(13.870km),(1962年(昭和37年)6月開通)がある.新疋田というくらいだから疋田駅もあってよさそうだが今は存在しない.疋田駅は,今は廃線になった旧北陸本線にあった駅である.「木ノ本」〜「敦賀」間と「敦賀」〜「今庄」間は勾配の緩和のために現在の鉄路はまったく異なる場所に建設された.旧北陸本線の駅と駅間距離を挙げると,
となる.「木ノ本」〜「今庄」間の旧線の距離は52.5kmで現在線は42.7kmであるから距離も短縮されているが重要なのは勾配が緩和されたことである.すなわち旧線の「柳ケ瀬」〜「刀根」付近,「新保」付近,および「杉津」〜「大桐」間で25/1000の勾配の峠越えが汽車の難所だったのである.「木ノ本」〜「今庄」間の所要時間も各停で云うと新線が約50分なのに対し旧線では1時間40分もかかっていた.
今回はこの廃線跡を木ノ本駅から北へたどる.
木ノ本駅を発車した下り電車は山が迫っている狭い所をぬけ少し左にカーブする.そして余呉川を渡るのだが,その直前にR365が線路に寄り添う所がある.そこが旧線の分岐点である.現在線は左にカーブし余呉駅に着く.余呉駅付近は人家がほとんど無いが,ここに駅を作ったのは北東1kmくらいの旧線の中ノ郷駅の代償であろう.
余呉駅で下車する.駅前にレンタサイクル屋がかろうじてあるので,余呉湖を1周するとよい.1時間で十分である.駅からも見えるが,湖畔に「天女の衣掛けの柳」がある.この柳は中国原産であり,仏教伝来と一緒にもたらされた.この付近にはよくみられ,木ノ本駅前の柳には解説の看板がある.
余呉駅から10分くらい歩き,先ほどのR365に戻る.「下余呉」のバス停がある.旧線の分岐点には何も残っていないし,単線であった旧線は拡張されてR365になっているので,ここに汽車が走っていたとは現地にいるだけではわからない.R365を1kmちょっと北の「中ノ郷」の町まで歩く.バスに乗ってもよいが,この先でこの系統のバスを利用することもあるので時刻をメモしておくとよい.中ノ郷の町は余呉町で一番大きな集落であり,余呉町役場がある.役場のすぐ北の筋向いに公園がある.そこが旧線の最初の駅「中ノ郷」があった所である.次のように駅名標が復元されている.
この駅名標は元中ノ郷駅員一同によって立てられたもので裏に感傷的な追憶文が書かれている.公園とR365の歩道に段差があるが,それは駅のプラットホームがそのまま残っているようにも見える.
中ノ郷からバスに乗る.道はほぼまっすぐの上り坂である.旧線の跡であるR365をたどっているのだが実感はない.下余呉の町から,中ノ郷〜柳ケ瀬,さらにその先の「椿坂」まで,この余呉川のある谷は異常なほどまっすぐである.
実は,この谷は有名な柳ケ瀬断層そのものなのである.この活断層は,ほぼまっすぐに北にのびている.断層は余呉川のみならず椿坂峠を越え,高時川の支流を下り,今度は高時川の別の支流をさかのぼり,栃ノ木峠を越えてさらに延びている.柳ケ瀬断層は,長い年月を掛けて活動し,それが逆に交通に便利な地形を提供したのである.それが即ち北国街道でありR365である.
柳ケ瀬で下車する.柳ケ瀬の町は小じんまりとしているが,R365とそれと平行する北陸自動車道のため静かとはいえない.旧柳ケ瀬駅の痕跡を捜すが,R365に塗りつぶされていて全く分からない.地元の人に聞いたが何も残っていないとの事であった.
明治初期,北陸路に鉄道を建設する機運が高まり,敦賀港と太平洋側を結ぶルートが着工された.1882年(明治15年)3月,柳ケ瀬トンネル部分を残して,「長浜」〜「柳ケ瀬」間と「柳ケ瀬トンネル西口」〜「金ヶ崎」間が開通した.「金ヶ崎」は,敦賀駅から引き込まれた貨物線の現在の敦賀港駅である.背後の山に金ヶ崎城跡がある.標高100mにも満たないが眺めがよい.気比の松原が見える.その位置は敦賀湾の一番奥にあって,砂が堆積した様子がよく理解できる.
1884年(明治17年)には柳ケ瀬トンネル(1352m)が完成し,「金ヶ崎」〜「長浜」間が全通した.このルートによって敦賀港の物資の輸送が飛躍的に向上したのである.
またこの時期は北陸本線に限らず鉄路が全国に急速に広まった時期であった.1889年(明治22年)には,「新橋」(現在の汐留駅跡)〜「神戸」の東海道線が全通している.
敦賀から先は,1895年(明治28年)「敦賀」〜「今庄」間が開通した.もちろん北陸トンネルの出来る前の話であり,線路は地形を巧みに利用した山岳路線であった.北陸トンネル経由の新線が出来るまでは敦賀の2つ北の杉津駅は敦賀湾の眺めがよく,北陸本線随一の車窓といわれていたそうだ.今の北陸自動車道の杉津P.A.がその場所である.
杉津回りの線は北陸トンネル経由の新線の完成と同時に廃線となったが,柳ケ瀬トンネル経由の「木ノ本」〜「敦賀」間は沿線住人のためにローカル線として残されたが,1964年(昭和39年)5月廃線となった.
旧柳ケ瀬駅を後にR365の上り坂を歩く.登り勾配は徐々にきつくなる.北陸自動車道の柳ケ瀬トンネルが上下線で2本見えている.その手前にR365から右へ分かれる道があって,すぐ狭いトンネルになっている.R365からの分岐に「雁ケ谷」のバス停があるので,「柳ケ瀬」をパスしてここまでバスに乗ってもよい.バスはこの先トンネルには入らず柳ケ瀬断層に沿って北へ進み,終点の「中河内」まで入っている.
さて,このトンネルは旧北陸本線の軌道跡であり,単線分しかない柳ケ瀬トンネルである.長さは1352mで,トンネルの入口が「木ノ本」〜「敦賀」間の最高地点となっており地形図によれば標高250m位ある.ただR365と北陸自動車道の盛土のためトンネル入口は今ではかなり低い所に開いているようにみえる.
トンネル入口に石碑がある.碑文はこの鉄路を立案・推進した伊藤博文の書で「萬世永頼」と読める.ただし石碑自体は複製で,本物は長浜の旧長浜駅舎鉄道資料館の前庭にある.トンネルは単線用のものだったので車は対面交通が出来ず,入口に信号がある.歩行者通行禁止と書いてあったので,トンネル部分だけ信号待ちの車に乗せてもらった.
トンネルは出入口付近以外はまっすぐの急な下り勾配(25/1000)で,トンネル内の数カ所に昔の保線用のスペースがあった.柳ケ瀬トンネルは,廃線後旧国鉄バス専用のトンネルであったが,今はここはJRバスは通ってなくて,一般の道路になっている.バスの始発は木ノ本駅で,駅前のバスの路線案内図にはその部分を消した痕がある.
トンネルの出口にも,複製の石碑があった.今度は柳ケ瀬トンネルの由来が漢文で書かれてあった.漢字も今では用いられないものもあったが,今の漢字では表題は,
「柳瀬洞道碑」となっていた.かなり長い漢文であるが,内容をピックアップすると,
「洞長七百三十九間」
「傾斜西下四十分」
「明治13年6月着工」
「明治16年11月16日東入百五十間貫通」
「洞中石質柔脆易崩壊」
といったぐあいである.本物の石碑は,同じく長浜の資料館にある.
トンネルを貫けると滋賀県から福井県に変わっている.出口付近にトンネルが出来るまで「柳ケ瀬トンネル西口」駅があったはずであるが,北陸自動車道が通ったために川筋も含めて地形自体が変わっていて全く分からない.軌道跡も分からなくなっていた.ただトンネル出口から500m位は北陸自動車道の米原方面行きあたりが軌道のあった場所と想像できた.
500m位歩くと北陸自動車道をくぐり北側へ移る.地形から軌道跡に戻ったことが分かる.200m位軌道跡の道路を歩くと刀根川を渡る.この先道路は不自然に,道一本分だけ北へシフトしていた.軌道跡は,この道と北陸自動車道の間の土盛りであるのが分かる.
さて,先ほどの刀根川を渡ったところに良くは分からないが鉄道遺物らしいものがある.まず道路の少し下流側に斜めに架かった鉄道橋らしいものがある.そして刀根川の右岸にやや広い河原があって,その端の山裾にかなり大きな壁のような構造物があった.壁は古く下部に,用途は分からないが3つトンネルの入口のような形のものがあった.中は倉庫かもしれない.
そこで次のように推理した.
この広場は「柳ケ瀬トンネル西口」駅跡である.柳ケ瀬トンネルができるまで,本線の予定ルートから北に分かれてとりあえず引き込み線を作り,この行き止まりの駅を作った.刀根川に斜めに架けられた橋を渡るのである.この仮駅は柳ケ瀬トンネルの工事の前線基地であった.そしてトンネルが完成するとこの駅と引き込み線は廃止され,刀根川を渡らずまっすぐに軌道が設けられた,とするのである.先ほどは,「トンネル西口」駅は柳ケ瀬トンネル出口付近にあったと思いこんでいたのである.この考えは自分としてはなかなか魅力がある.しかし正解かどうかはわからない.古い地形図が手に入ったら確かめてみたい.
本線の軌道跡に戻ろう.北陸自動車道との間の土盛りである.少し進むとその土盛りを削って歩道にする工事が行われていた.ここを訪れるのが遅いと軌道跡が分からなかったかもしれない.その先は軌道跡は北陸自動車道に完全に吸収されて,刀根P.A.に至るのである.駅間距離からすると刀根P.A.のあたりに旧線の刀根駅があったはずである.
刀根の町にたどり着く.地元の人にお話を伺った.
刀根駅があった場所は,刀根P.A.の給水棟のあるところだそうである.さらに刀根駅はスイッチバックの駅であったことも伺った.つまり2線あったわけである.そのうち低い方の線は高速道路の土盛りの基部ぎりぎりに部分的に残っているように見えた.
刀根駅から軌道は1km位,北陸自動車道によってつぶされていた.刀根の町はずれから北陸自動車道は上下線の間隔があくが,軌道跡はその敦賀方面行きと一致している.刀根の町を過ぎ1kmくらい歩くと川がコの字形に蛇行するところがある.北陸自動車道の2本のトンネルに挟まれて刀根トンネルがあるが,振り向くと一直線上に廃線跡の100mにも満たない短いトンネルがある.実はあらかじめ地形図でチェックしていた場所である.バックして廃線跡のトンネルをくぐる.すぐ先に小川があり当時のままらしい鉄橋が残っていた.
先ほど刀根の町で伺った話の中でこの短いトンネルのことも聞いていた.このトンネルは小刀根トンネルといい,なんと日本ではじめて出来たトンネルなのだそうである.
普通に知られているのは,日本で初めてのトンネルは天井川である芦屋川をくぐるように掘られたものであり,これをトンネルとは言わないならば,今度は1880年(明治13年)完成の,京都〜滋賀間の逢坂山トンネルが初めてとされている.小刀根トンネルは,何らかの条件,例えばトンネルの完成でなく貫通の時であるとか,は付くものの何らかの意味で日本初なのであろう.
もとに戻る.廃線跡のトンネルからみると,実は刀根トンネルは単線の鉄道トンネル跡を拡幅したものであることが分かる.さらに1km位でR8と合流する.その間の軌道跡は北陸自動車道によって破壊されていてわからない.しかしR8に合流した直後,R8が左に大きくカーブしている所で,軌道跡が見つかった.まずR8の合流点付近でその山側に平らな部分があり,それは徐々にR8より高くなりながら続いているのである.線路跡にまちがいない.軌道跡は3mくらいR8より高くなった後,ふたたび相対的に低くなり,曽々木の町はずれの釣具店の所でR8と同じ高さになり合流していた.その先は疋田の少し手前までは,軌道跡はR8にほぼ一致するようであった.
地形図で気になっていた場所があったので,そこに行ってみることにした.このあたりの地形は刀根方面からの谷筋が,南からの五井川と合流するようになっていて,そこに疋田の町があるわけだが,その合流点から水路が山際を走っていてひょっとしてこれが廃線跡かと疑っていた.実際歩いてみると線路跡をそのまま利用したようにみえる部分もあるがカーブが不自然で廃線跡でないらしいことが分かった.
疋田の町へ行き,人に尋ねて正解が分かった.
まず先ほどの水路は無関係であった.疋田の町の手前でR8は川を渡るが,その橋のすぐ上流側に古い橋がある.しかしこれは古い国道に架かっていた橋である.それよりさらにすぐ上流側が汽車の軌道跡なのである.橋台と橋脚の基礎が2基残っていた.
旧疋田駅の場所は今は幼稚園と診療所になっており何も残っていなかった.軌道跡も普通は道路になっていることが多いのだがここはそれもなかった.ただ駅前に当たる場所に一軒旅館があった.それは駅前旅館であったはずである.
このあたりからは新線がよく見え頻繁に電車が走っていた.
前に書いたように旧線は勾配がきつく輸送のネックになっていた.そこで昭和30年代に大規模な路線変更がなされ,勾配は25/1000から10/1000へと緩和された.これを木ノ本駅から北へたどろう.
旧線は柳ケ瀬トンネル経由だったが新線はこれを廃し余呉駅を経て余呉湖の北岸を西に進む.そして余呉トンネル(1.7km)を経て近江塩津駅に至り,さらに深坂トンネル(5.2km)をぬけ新疋田駅に着くのである.疋田駅の代償である新疋田駅付近には余呉駅の場合と同様に何もなく,遠く眼下に旧線の疋田駅のあった疋田の町が見えている.
新疋田駅を出ると高度を徐々に下げ,敦賀駅に至る.但しこれは当時とりあえず出来た単線の路線であり1957年(昭和32年)に完成した.その後間もなくもう1線の複線分が完成し,古い方の線は坂を下る一方の敦賀行(下り)専用になった.複線分は勾配の緩和のためにループ線がもうけられた.現在ループ線は上り専用(敦賀から木ノ本方面行き)なので,敦賀からの実際の車窓を見てみよう.
敦賀駅を出た電車は,土盛りによって徐々に高度をかせぎ,はじめ谷の右岸にとりつき,一転R8と下り線を鉄橋で越えトンネルにはいる.もし,上り線に乗っていたなら右前方から線路が現れ頭上を鉄橋で越え左後方のトンネルに消えるように見えるし,さらにその上の山腹にはもう1本鉄路が見えるはずである.さて上り線はここから2つのトンネルで時計回りに1周ループするのである.2つのトンネルの間のわずかな時間に,左窓に敦賀市街が眼下に広がっていて眺めがよい.また直下に小浜線の線路がちらっと見える.逆に小浜線からは西敦賀駅のすぐ東で山腹を見上げればループ線の路盤が見える.ループのトンネルを出ると,今通った自分の線が左に見え,ループの始まりのトンネル入口の上を通過しループは一周した事になる.下り線から見えたもう1本の線路はこの部分であった.
上り線は下り線の西,つまり通常とは逆の右側通行で山腹のもっと高いところを新疋田駅に向かう.新疋田駅の手前のトンネル内で上下線はクロスするので新疋田駅では何事も無かったように左側通行になっている.
木ノ本から敦賀までは上下線が相前後して作られたのでトンネルも単線分が2本である.これが北陸トンネルと違うところである.北陸トンネルは複線用のトンネルであり,1962年(昭和37年)6月に完成した.長さは13,870mある.これによって北陸本線の近代化は完成したのである.
地形から判断すると廃線跡は,疋田の町からはR8よりも現在線の上り線のほうが適当かと思われる.つまり疋田の町はずれからは新線は旧線の軌道をそのまま利用したと考えられる.それにループの方の複線分が上り(登り勾配)で,再利用の旧線は近い将来下り専用(下り勾配)にするつもりであったので何も問題はない.しかし何の証拠もないので古い地形図が手には入ったら確かめるつもりである.
このあたりは,もはや山間部ではないので,下り勾配はかなり緩やかになる.「小河口」の町をすぎ「鳩原」の町に近づく頃,新線のループ線が見える.R8が上り線をくぐったあたりで電車を眺めよう.
目の前の笙川を挟んで下り線がよく見える.電車は左から右へ頻繁に走っている.上り線の電車は背後からやってきてR8と下り線を跨ぎトンネルに入る.そして2分5〜15秒後にまた山腹の高いところを走っているのが眺められる.地形図によれば鳩原からループ線のトンネル入口まで道が描かれてあったが分からなかった.地形図にないもっと南の方から入れば車でトンネル入口に行けるようであった.
廃線跡が新線に利用されているのならR8を歩く意味はない.鳩原から敦賀駅行のバスに乗った.
「木ノ本」から「今庄」間の旧線は,北陸自動車道と平行に走っているところが多い.あるいは高速道路によって旧線の路盤がなくなっているところもある.こういった場所は他にもある.たとえば京都の東山トンネルのなかった時代,旧東海道線の大津から稲荷あたりにかけては今は名神高速道路が通っている.
これにはある部分必然的な要素がある.
古い時代の線路は,なるべくトンネルを避けようとする.しかも難工事のためできるだけ短く済ませようとした.だから勾配は少し犠牲にして峠の直下を短いトンネルを掘って線路を敷いたのである.それらは大量輸送に向かず廃線になったが,一方車の方はどうであろうか.車は列車よりはるかに軽く,列車が難儀する程度の勾配でも苦にならない.また高速道のトンネルは口径の大きい二車線分のを上下線で2本掘らねばならないのでなるべく短くしたい.これらを考えると,昔の線路のルートと今の高速道のルートが似るのは当然である.旧北陸本線の柳ケ瀬トンネルのすぐそばを北陸自動車道の柳ケ瀬トンネルが2本走っているし,敦賀から杉津付近では高速道路の車窓から旧北陸本線の土盛りやトンネルが見える.汽車の路盤やトンネルは道路になっても車一台分くらいであるので,道路地図をよく見ればなぜこんな山奥に細い道路がわざわざ狭くて長いトンネルを掘ってまで作られたか,事情を知らなければ不思議に思うかも知れない.
高速道路と廃線跡は似たルートをとりやすいと書いたが市街地は話が別である.市街地は用地がないことや公害のために高速道路は避けて作られる.車だから駅のそばにインターチェンジを作る必要もない.よって敦賀インターと今庄インター付近は旧北陸本線とは別のルートになっている.
つづき