1998年秋,京都の南山城にある京都府立山城郷土資料館で「南山城の鉄道100年」という特別展が催された.
あいさつの冒頭に「今年平成10年(1998年)は,現在のJR学園都市線(片町線)が,明治31年(1898年)に片町−木津間全線開通してから,ちょうど100年になります.明治31年ころというと,南山城地域では,鉄道が次々に開通していく時期に当たります.・・・」とあるように,後に国営化される関西鉄道や奈良鉄道が名古屋〜大阪や京都〜奈良に鉄道を開通させた時期であった.今のJR木津駅はその十字路にあたっていたのである.
1/25000の地形図「奈良」を見るとJR木津駅の北側は線路が不自然に敷設されていることに気がつく.詳しく眺めると,京都からのJR奈良線は木津川を渡ってその堤防の高さを解消するため高度を下げるが,その途中に道路が下をくぐっている場所がある.その道路は実は鉄道の軌道跡で,関西鉄道という私鉄が東は名古屋から現在の関西本線を通り,現在のJR奈良線をくぐって片町線経由で大阪へ向かっていた時期があったのである.
最近,1997年のJR東西線の開通によって片町駅は姿を消したが,すぐ北寄りの網島という町名をとった関西鉄道の網島駅〜木津駅間が全通したのは1898年9月で,11月には名古屋から加茂まで来ていた鉄路は先ほどの廃線になった軌道を通って今の片町線とつながった,と同時に名古屋と大阪間を直通する汽車が走ったのである.名阪間に官営鉄道(東海道本線)と対抗するダイヤが組まれたのである.地形図を見ると東西の軌道跡が先に出来ていて,後に片町線から木津駅へ急カーブの渡り線が出来たように想像されるが,実際は”渡り線”が僅かに先に出来たのであった.
一方,加茂から来た鉄路が現在線のようにカーブして木津駅まで開通したのは1905年でやや遅れている.これには理由があって,京都から奈良さらに桜井までは奈良鉄道という会社が営業していたのであるが,関西鉄道が奈良鉄道を吸収すると同時に加茂方面から奈良へ渡り線を開通させたのである.会社が異なっていたのが渡り線が出来たのが遅かった1つの理由である.もう1つ,今回の主題である”大仏鉄道”関係の理由があるが,それは後に述べる.
木津駅の北にある現場に行ってみると,片町線側の渡り線は廃線跡の道路に自然に合流していて,元の加茂から片町線へ直進する軌道は容易に想像できた.軌道が今のJR奈良線をくぐる鉄橋の橋台は当時のままだそうである.交差の下は単線の汽車が通れる幅しか無いので狭く,通過する車に対し橋台に衝突した際の注意が記されていた.一方,東の加茂駅側は軌道跡の道路が渡り線よりかなり低い位置にあり,道路と現在線が接した地点が合流点ではなさそうで,標高が近接するかなり東寄り,すなわち関西線が木津川から離れ,その支流を遡るためカーブしたあたりが合流点であるように思えた.
木津駅の近くはこのような状況であったが,実は木津付近を通らないで名古屋方面から今のJR奈良駅へ向かう通称大仏鉄道があった.資料館の特別展の古い地図には加茂駅から西へ鹿背山トンネルに入る手前で本線から分かれ,つまり木津方面でなく,ほぼ直線的に奈良駅へ向かう鉄路が記されていた.開通は加茂駅から奈良駅の北約1kmにあった大仏駅までが1898年4月で,奈良鉄道の奈良駅まで営業の汽車が乗り入れたのが1899年5月であった.つまり木津付近の鉄路が出来たのとほぼ同時に大仏鉄道は出来たことになる.先の現在の加茂から木津に入る急カーブの渡り線が1905年完成とやや遅かったのは大仏鉄道経由で名古屋方面から奈良へ鉄路が既にあったからであった.そう言えば加茂駅から奈良駅間の関西本線の鉄路は木津経由では遠回りなのが容易にうなずけた.1900年に関西鉄道は奈良〜港町(現在のJR大和路線)の大阪鉄道を吸収し名古屋から大仏線を経由して大阪の港町まで5時間を切るスピードで直通の汽車を走らせて官営鉄道と対抗したが,それが大仏鉄道が短いが華やかだった時代であった.当時大仏線は名古屋〜湊町間の関西鉄道の本線の一部分を担っていたのである.先に述べた木津の渡り線が1905年に出来ると路線の起伏の激しい大仏線は経済効果が悪く1907年(明治40年)8月20日で廃線になってしまった.
現在の地形図を見れば大仏線の軌道跡と思われる道路が記されており,資料館の解説から軌道跡は奈良の市街地を除けばかなりはっきりとトレース出来ることが分かった.ただしちょっと事情が複雑な点があった.現在の関西線の鹿背山トンネルは関西鉄道の開通時とは異なり北寄りに長いトンネルが掘り直されていたということであった.しかも旧トンネル経由の旧本線の途中から大仏鉄道が分岐しているようなので,現在線のない地点での分岐点を探す必要があったのである.
1998年冬から1999年初めにかけて大仏線跡を歩いた.JR加茂駅には特別展であった通り古いランプ小屋が残っていた.駅の西にはSLが保存されていて加茂駅が今以上に重要な駅であった事がうかがえた.駅から地形図を参考に南下し踏切と赤田川を渡り西へ向かう.地形図にあるように石部川で南下し線路をくぐった.この日とは別に南の高田地区からも先の線路をくぐる地点まで行ってみたがこっちはちょっと遠回りである.
現在線の短い陸橋をくぐると並行してすぐ南側に別の橋台があった.石造りのそれは現在線のものと似て古いものであったが,想像される線路の高さが現在線のものより1mくらい高かった.これは1898年の旧本線のものでここではまだ大仏線は分かれていないことが想像できた.しかし正確に言うと大仏線の方が同じ年に開通したとはいえ開通は先なのでこれが大仏鉄道の廃線跡であるとも云える.地形から現在のJRからの分岐はここより僅かに東寄りであるのが分かった.つまり同じ土盛りから分かれてすぐに幅員の狭い道路を別々の橋で渡ったのである.古い鹿背山トンネルは短くかつ現在のものよりも標高が高いところにあったことが地形図から読めるので,新しいトンネルは古いトンネルへ向かうほどには高度を上げる必要が無かったのであろう.線路の南側に沿った小道をやや西へ行けば現在線は土盛りだけなのに旧線には橋台が残っていた.旧線との標高差は1.5m位になっていた.付近の地形を見ればこのすぐ西で旧本線と大仏線は分岐していたようである.
先の陸橋から西への小道を歩く.現地で地形図と照合すると小道の北側の藪が大仏線の軌道跡で,北側に近接して南斜面が切り取られた旧本線の軌道跡があるようである.しかし忠実なトレースは藪で出来ず,そばから想像するしかなかった.地形図を見ると旧関西線の軌道は南側だけの切り取りからやがて両側が切り取りになり,つまり切り通しになりやがて旧トンネルへと入っていくのである.地形図にトンネルの入口の東側に小さな跨線橋が架かっているのがわかる.実際にそれはあったが何とも危なっかしいものであった.しかしその跨線橋の上に立てばトンネル入口が木の葉の間からはっきりと窺えたのであった.入口は格子がはまっていたが,たとえそれが無くてもとてもトンネルを通過することは出来ない様であった.実は廃線のトンネル歩きに必須の懐中電灯を持っていたのであったがこれはしょうがない.その少し西には大仏線用の橋台がさらに1基あり,そこでは旧線との標高差は20m位までになっていた.すぐ西へ進めばそこはすでに旧トンネルの東よりの上部で峠の頂上であり,道の北側の大仏線の土盛りはもはや無く軌道は道の側近を通っていた様である.
地形図にある道が北から合流しているが,そこに旧国鉄の売却地である看板があった.敷地はレールの枕木の柵で囲まれていて,その境界線により軌道跡がよりはっきりと同定できたが,ここはいわば峠越えのピークであり敷地の幅は広く,昔何らかの軌道以外の設備,たとえば行き違いの信号所,があったかもしれない.
旧トンネルは短く,先の丁字路から西に下るとすぐ大仏線跡の道から木津方面へ分かれる道がある.木津方面へ寄り道してみた.道は旧トンネルの西端の上部を越える.越えて鹿背山不動の前から切り通しを眺めたら西のトンネル出口が明瞭に観察できた.入口は東同様格子がはまっていた.ついでに現関西本線と旧線の分岐点付近まで行ってみた.旧トンネルからの旧線の切り通しはやがて低くなりそれが解消する直前に地形図にあるように小道が旧線を跨ぐ橋があった.橋の下は土砂でかなり埋まって汽車が通るには頭がつかえる高さになってしまっていたが,橋の上に立てば現在線の線路が西に正面に真っ直ぐ見えるのであった.地形図にあるとおりで旧線は旧トンネルへ向かうのに真っ直ぐに進んだことが分かった.北側にある現トンネルを掘った際に軌道を北寄りに曲げたことになる.
大仏線の軌道跡に戻る.ここから地形より軌道は道路そのものであるように思えた.旧線は峠を小さなトンネルで越え木津へ向かうがそのトンネルの上を大仏線は通りさらに高度を増し奈良へと向かうのである.
500m位上り勾配を行くと地形図にある陸橋に着く.下の道は先の木津方面から旧線を跨ぐ道路である.下に降りればその橋台は,本体がレンガ造りで角に石をはめた大変美しいものであった.先の資料展でその写真があったように,被写体としてもすぐれているものであった.ただその桁は丸太や石柱を渡した無造作なものであった.鉄路の廃線後に適当なもので車を通す道にしたのがわかる.
軌道の上り勾配はさらにきつくなる.長い登り勾配を標高90m位まで行くと今度は一気の下りである.勾配は今の鉄路でも難所と思われるくらいであり,大仏鉄道が難路であって短命であったのがうなづけた.下り切ったところは下梅谷地区であるが,谷筋を横切る格好になるので特別展であったように勾配緩和のため陸橋が架かっていた.しかし今ではその面影はほとんどなく南側に陸橋から続いたはずの土盛りが僅かに残っているのみであった.
ここからの上りから府道44号線になる.車が多くなり峠を越え又下りである.建設中の道路と合流すると道幅はぐっと広くなる.もう軌道跡という気がせずかなり白けてしまった.また小さな上りで,そのピークが京都府と奈良県の境で,国境食堂という和食屋があった.まわりはすっかり開けてしまってマンションも多くなり,そばのバス停を見ればその運行はかなり頻繁であり,歩いている私がなぜか空しくなるのであった.小さな上り下りが2回ばかりあって,資料館にあった黒髪山トンネル跡についた.大仏線の開通当時は小さな山にトンネルが掘られていたのであるが,今は広い道路が通る切り通しになっている.解説の看板くらいあってもいいかな,と思った.切り通しを越え,奈良ドリームランド前を通過し鴻ノ池運動公園に達する.もうすっかり市街地で軌道跡もその先すぐで無くなっているのであった.
実際はこの付近から今のJR奈良駅は1.5km位で現在の関西本線がJR奈良駅を出てすぐ北で西へカーブする点を考えれば軌道が多少直線からずれていても大差なく線路のあった場所は想像できる.その辺りを今ある道でたどってみた.実はもう近鉄奈良駅の方へ行って帰ってしまおうかとも思ったのであるが,一乗通りの法蓮駐在所から南下し佐保川に架かる下長慶橋の北よりの公園に思いがけなく貴重な資料があった.もう少しで行き過ごしそうになったが,SLの動輪が飾ってあり銅のプレートに解説があった.
タイトルは「関西鉄道大仏駅について」とあり,特別展にあった大仏線と大仏駅の解説があった.現場にあるので大仏駅については詳しく記されていた.大仏駅は先ほどの法蓮駐在所の南側にあったそうである.また下車した乗客は一乗通りを通って東大寺へ参拝した,とあった.東大寺の転害門から入ったのであろう.また奈良駅への乗り入れについて,営業は明治32年5月だが線路は明治31年12月に出来ていた事が記されていた.また黒髪山トンネルは昭和39年頃まであったことも記されていた.
佐保川に架かる下長慶橋から商店街を南下すればすぐ奈良駅の北側に出たが,付近は予備知識が無いと昔鉄路があったなんて全く想像出来ないであろう.わずか9年間という短期間で廃線になったので大仏線は成仏出来なかったかもしれない.