現在,近鉄大阪線の電車が伊勢石橋駅の東側の雲出(くもず)川を渡る時,川の左岸(伊勢石橋駅側)になめらかにカーブした里道が通っているのが車窓から見える.それが中勢鉄道の軌道跡である.1925年に全通した中勢鉄道は,白山町のJR名松線伊勢川口駅から近鉄大三(おおみつ)駅付近を通り,先ほどの伊勢石橋駅付近を通ってから近鉄名古屋線久居駅を経由して津新町駅の東1kmの岩田橋のたもとまで走っていた軽便鉄道である.しかし短命で,1943年に全線が廃線となった.
地図で軌道跡を見るとJR名松線の伊勢川口駅が連絡駅で近鉄大三駅や伊勢石橋駅に寄ったりしてから近鉄久居駅へ比較的真っ直ぐに向かっているように解釈できる.ところが中勢鉄道が出来たときは名松線も近鉄大阪線も存在しなかったのである.
一志郡の白山町や一志町は古くから奈良盆地や長谷寺と伊勢を結ぶ初瀬(はせ)街道が通っていたが,物資の輸送は雲出川の水運に頼っていた.そこで明治時代末期から大正時代にかけて全国的に鉄道が敷かれたように,当地でも軽便鉄道ではあったが鉄路が出来た訳である.
近鉄榊原温泉口駅から南へ約1kmの所に上記の初瀬街道が通っているが,そこに白山町郷土資料館がある.私は地方所々の資料館などの施設を訪問して,そのなかで無料の施設をホームページで紹介しているのであるが,この施設の部分を以下に転記する.
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何年か前に訪問した際,資料として展示されていた中勢鉄道の事がずっと気になっていた.そこで02年春に廃線歩きをしよう,という気になった.1回では無理なので何回かに分けて歩くことにした.上記の資料館も再訪したかったので,伊勢川口駅から廃線歩きをスタートする事とした.
近鉄榊原温泉口駅から資料館へ向かう.立派な資料館でつぶさに見ればかなり時間がかかる.館の方に中勢鉄道の資料に関して伺えば,多くの時間を割いていただいて本や広報の資料等で廃線跡の現状がどうなっているかを教えていただいた.何処にどんな鉄道遺物があるかなど,ぼんやりと廃線歩きをしただけでは分からないような事まで教えていただいた.特に久居駅の北側で廃線跡は県道776から東へやや離れていて,むしろ近鉄の軌道のそばを通っていた事などは予備知識としてはありがたかった.また,何処のどういうお宅の脇に,云々という具合であったので疑問があればまた再訪して伺うこともあるかな,という印象であった.
資料館でゆっくりとしたので,資料館を出て伊勢川口駅へ向かったのは午後2時を回ってからとなった.今日は大三駅か伊勢石橋駅までで引き揚げるのがせいぜいであろう.
てくてく南へ歩いて雲出川に至る.渡ってから1本東の道路を南下した.名松線の線路に突き当たったら,そこにはちょうど22kmのキロポストがあった.線路沿いに400mくらい東進すると踏切がありその手前に勾配標があった.線路沿いの道は10.0/1000の下り勾配であったが実際には坂道という感じは抱かなかった.名松線伊勢川口駅はまもなくであり南側の片面のホームにあった停車場中心がちょうど21.3kmの距離程であった.
道路を挟んで北側のゲートボール場が駅跡の一部だそうである.上記のように,この軽便鉄道は名松線より前にあったし,軌道幅がJRとは違いナローなので普通の連絡駅の様には接近して敷地があった風には見えなかった.名松線が開通してからも汽車の乗り入れはもちろん出来ない訳である.駅跡から東へやや進むと軽便鉄道関係の敷地が狭まっている跡らしい空き地に出た.名松線の踏切の少し手前である.そのあたりで広かった駅のスペースから軌道は単線分の幅に移行していたのかもしれない.
名松線に北側に沿った道路を東進する.途中,道路の北側の田んぼにちょっと不思議なものがあった.付近の田は南北に6条植えの様な感じであったが,道路のそばだけ4m位は道路に沿って6条植えが3筋になっていた.私はそのへんは全く知識が無いので分からないがひょっとして軌道跡の名残が今でも残っているのかな,と思った.はっきりとした根拠は無いのだが篠山での軽便鉄道や国鉄有馬線でそんな風な光景を見たので,もしかしたら,と思った.普通なら南北に単純に道路際まで筋があって良いのでは,と思うのだが今回は間違いかもしれない.
名松線の次の踏切の手前に20.7のキロポストがあった.中勢鉄道の伊勢川口駅と次の廣瀬駅の駅間距離は0.64kmなので踏切の北東の集落付近に廣瀬駅があったと推定できる.しかしその間は田の畦がきれいに並んでいるのみで軌道跡は全く消えていた.軌道は現在の名松線の軌道から北に離れ,県道663と662のやや東側を北上し,雲出川を渡り,現在の近鉄大三駅もしくはバス停「二本木」付近の南へ数百メートルのところまで行き,それから東へ向きを変えていたように地図から窺える.
田には跡が無いので県道を北上し,東へ入れる道で軌道跡を推定しようとしたが初めは軌道跡の場所は分からなかった.しかし県道の新広瀬橋の上から東を見ると約100mに明瞭に橋脚が残っているのが見えた.本日初めて見た鉄道遺物である.そこで橋の南側すぐの小道を東に入って地元の方に中勢鉄道の軌道跡を伺った.地元の人は中勢鉄道とは言わず,単に”けいべんてつどう”と言っていた.
その小道は以前,中勢鉄道をくぐっていて陸橋になっていた,という事を伺った.またそのポイントの少し南には,田の側溝を渡っていた橋台が北側だけ現在も残っていた.コンクリートで出来ていて人の背丈ほどあった.その橋台と,南は先の踏切付近と先の雲出川の橋脚もしくは右岸(南側)の橋台を結べば,かなり正確に軌道跡が推定できた.橋台は真南ではなく南南西に向いていて緩やかなカーブがあったらしい.軌道があった土盛りの高さも正確に推定できたが,土盛り自体は完全に無くなっていて田の畦のレイアウトにもその痕跡は無くなっていた.
雲出川にかかっていた鉄橋の遺物を近くで見ると,まず南側の橋台はやや壊れているもののちゃんとあり,それから先の先ほど見た高さ15mくらいの橋脚との間に4カ所くらいあったらしい橋脚の内,一番北寄りらしい分の基礎が窺えた.しかし北側の橋台は木立に遮られ分からなかった.
県道に戻って新広瀬橋の上から鉄道橋の全体像を眺める.現存のコンクリートの橋脚は立派なもので一級品であった.長年の増水時にも最後の1本が耐えちょっと感動ものであった.
新廣瀬橋を渡ってから東へ入る道を何度か試みたが軌道の側溝かもしれない跡があったのみで,雲出川の北側の橋台付近には行くことが出来なかった.
だいぶ北上してかなり大三駅に近づいてからやっと地元の人に二本木駅跡の場所を伺った.今は畑であり掘れば石(バラスだろうか)がごろごろ出てくるそうで,丸まったバラスらしいものもかなり転がっていた.だが軌道跡とはっきりトレース出来るような連続したルートは消えていた.
いろいろと小道に入ったので今日はそれで止めて近鉄大三駅で普通名張行きに乗った.ちなみに上本町行きの快速急行への連絡は悪かった.
一ヶ月後,再び大三駅に降り立った.
廃線歩きを再開する.廃線跡は,しばらくは雲出川の支流の大村川の南側である,というのは分かっていたのだがその付近,地図には橋が描かれていなかった.軌道跡をたどれば大村川を北へ渡れず,かなりバックせねばならないと思い,仕方なく大村川を渡らずに北側の道を東へ進んだ.すると地図にない橋が架かっていたので,渡って軌道跡を探した.
ちょうど地元の年輩の方がいらしたので軽便鉄道の事を伺った.廃線跡は予想通り,目星を付けていた里道になっているという事が分かった.しかし地図で描かれている以外の道もあったので,軌道跡と確信できたのは有り難かった.ちなみに彼も軽便を”けいべん”と言っていた.
先日訪れた伊勢二本木駅跡まで戻ってみた.ちょうどイセゴム工業の角から里道が付いているのが分かった.その角は大三駅から県道を南下して大村川を渡ってから東へ入ってすぐの場所で,先日の最後に行った場所と繋がった.
廃線跡の舗装された里道を歩く.その日の初めは,行動がやや消極的であったので結果的にちょっと余計にうろうろしてしまった.廃線跡を正確にトレースする.場所は大村川の右岸の河岸段丘ということになる.杉木立をぬけると道は広くなり,付近は宅地開発の真っ最中であった.大三駅から徒歩10分位であろうか.駅の南すぐにはR165もあり交通はまあまあ便利といえる.大村川を渡る橋も地図には無いが,いくつかあった.
やや歩くと道は狭くなり周りは田である.地図での推定によれば大村川が雲出川に合流するちょっと北で軌道は大村川を渡っていたように見える.その通りで農道の行き止まりの先に大村川に架かる橋台が残っていた.背丈位の高さがあったので,その手前の農道の下り傾斜は軌道の土盛りを取り去った跡だという事が理解できた.川には高さ5m位の橋脚があり,その向こうには別の橋脚もしくは左岸側の橋台が窺えた.ただ木が茂っていて対岸の様子は正確にはわからなかった.やや戻って北側の小道を進み,橋を渡る.その日初めに進んでいた道に出た.
大村川の対岸側つまり東側に行き先ほど分からなかった部分を見ようとしたが,久居市の管理地であり立ち入れなかった.歩いてきた道はそこで直角に東へ曲がっており軌道跡に合流したことが分かる.ただ正確には軌道は道路に並行した北側であり,やや進むと小川に道路橋の楠木橋とは違う橋の跡が残っていた.明らかに鉄道橋の跡であり,橋台はペアで良く残っていて付近は1m位の高さの土盛りが少し残っていた.橋跡は水道であろうか何やらパイプが数本渡されていた.軌道跡は明瞭で里道の北側に沿って残っていて桜の植林も為されていた.
北を見ると近鉄の軌道はかなり近く,その間は茶畑である.あとで聞いたところではそこが亀ガ廣駅跡であった.その付近は近鉄の車窓から何度も見えていた場所であった.今後は,今日の帰りも含めて正確に軌道跡を眺めることが出来るはずである.
地形を改めて眺めると里道は雲出川の堤防の上にあり軌道跡とは明瞭に異なっている.軌道跡には何やら桜をうたった歌碑があった.すぐ東に雲出川に架かる赤岩橋がある.橋を渡れば名松線の伊勢大井駅が近いせいか数軒の住宅があった.それらの住宅への堤防の道路からの導入路が廃線跡であった.橋のたもとには旧初瀬街道の道しるべと付近の名所である亀ガ廣の桜の解説看板があった.先ほどの歌碑の存在理由が分かった.
雲出川の河床を見ると岩盤であり,流れによる浸食がちょっと奇景を見せていた.軌道跡は堤防の道からやや北へ離れ小さな切り取りを通過してから支流の三ヶ野川を渡る.ペアで橋台が良く残っていた.三ヶ野川を渡ったところから一志町に入る.軌道跡は斜面の切り取りとなっていて軌道跡は一見ずっと歩けるように見えたが行き止まりで里道に戻らざるをえなかった.軌道面は一旦高くなり,その切り取りには落石防止のコンクリート壁が作られていた.せっかくの軌道跡がちょっとかわいそうであった.
里道の脇に巨岩があり地蔵尊のレリーフが彫られていた.その裏が軌道跡である.そばに,ここが真盛上人ゆかりの地であるという解説看板があり誕生寺との関わりが解説されていた.東へ進むとすぐにゴルフ場の入口で,軌道はその植え込みの間を横切っている.そこでゴルフをしに来る人で軽便鉄道の軌道跡に気がつく人は多分いるまい.軌道は堤防道のそばからやや北に離れる別の道路になる.誕生寺への案内矢印があった.地図からは単に軌道は堤防道かと思えたが現地に立つと別の細い道であるのが良く理解できた.
山が迫ってくるが,左カーブを過ぎると視界は開け軌道は真っすぐとなる.誕生寺が見え,上出公民館の前に誕生寺駅のコンクリートのホームの残骸が残っていた.それは尋ねてみないとはっきりとしないものであった.30cm角で長さが20m位であろうか,一見道路の路肩の構造物のようであった.
軌道跡は直線から左カーブになり付近は麦畑である.誕生寺駅から0.64kmの大仰(おおい)駅は村出集会所のあたりであろうか,痕跡は見つからなかった.
堤防道と軌道はやや北で合流する.片山駅があった所である.道の合流点を見ると軌道跡は自然であり,堤防道が右にほぼ直角に曲がっていた.その交差点から近鉄伊勢石橋駅へ至る道もあり,そっちが県道549である.だが交通量はそこからは軌道跡の里道が多くなっていた.見ると軽四とか軽トラックは地元の車であり,セダン等がゴルフ関係であるのが良く分かった.
片山駅跡からやや北で軌道跡は小川を渡るが,その基礎は古そうでこれまでの橋台と同じ感じであった.鉄路があった当時の基礎を流用したのかもしれない.左カーブになり近鉄の軌道が近づいてきた.里道の左の側溝は田植え時の為か水量は豊かであった.そういえば三ヶ野川が雲出川に合流する直前に水をせき止める小さなダムがあり,そこからの農業用水が軌道跡と堤防道の間の水路や道路際の側溝につながっていることが分かった.
近鉄の軌道が近づいてきた.かなりのスピードで通過する電車が頻繁に見える.車窓からこれまで何度も今立っている軌道跡の道路を眺めたが,人は殆ど見かけなかった.車窓から私を見つけた人は,”何をしてるのかな”と思うかもしれない.
近鉄は里道と雲出川を一緒にまとめて鉄橋で越える.ガードをくぐったところに軽便鉄道の石橋駅跡があった.けやきの大木が目印で,駅の敷地はゲートボールが出来るようになっていた.ホームの敷地の北は里道同士の交差点で右に行けば流れ橋風のコンクリート橋で雲出川を渡れる様になっていて,左は近鉄伊勢石橋駅付近の集落に至っていた.
山が迫ってきて軌道は右へ避けるように敷かれていて,かなり険しい地形となる.山の斜面の切り取りの地形を見れば軽便鉄道と並行する道路の分のスペースは無くて,崖を切り取ってようやく鉄道の軌道のスペースを生み出したようだった.
其倉の集落があり,堤防上の里道から2本,歩道橋みたいなのが便利に架かっていたのでそこに駅があったらしい.すぐ北には雲出川に架かる其倉橋がありそこからは道路は2車線となっていた.交通量が増え,軌道跡の雰囲気は無くなっていた.
衛生センターがあり,そのすぐ北で雲出川の支流の長野川を渡る.橋は96年に出来た長野橋で鉄道の橋は跡形も無くなっていた.しかし橋を渡った所はまだ道路の拡幅の最中で,そこだけ軌道の雰囲気が残っていた.
交通量の多いR165が見えてきて合流の手前に久居市七栗産業会館がある.公民館風であったのでそこが七栗駅跡かもしれない.R165に合流ししばらく行くと「大師前」バス停でそこから道路は4車線になっていた.そのあたりに大師前駅があったはずだが痕跡は無くなっていた.
大師前からは明らかにR165の拡幅のせいで廃線歩きが面白くないのは明らかである.ちょうど30分に1本のバスが来たのでそれに乗って久居方面に向かった.途中駅があった「羽野」と「戸木」には同じ名前のバス停があった.
R165から県道24が分かれ,そっちが軌道跡である.南側の町名は万町であったがその名前のバス停は無かった.バス停「一本松」でバスを降りた.尋ねるとそこに萬町駅があったそうである.南に寄り道して”ふるさと文学館”と称する久居市の図書館に行った.そこで中勢鉄道の資料を検索したが何も出てこなかった.郷土資料も調べたが詳しい軌道跡の地図は得られなかった.
図書館を出て軌道跡の道路に戻る.西進して久居方面へ歩くと県道は寺町の信号で右へ角度を伴って曲がっていた.真っ直ぐの小道が軌道跡らしい事が分かる.寺町駅の痕跡は無かった.
小道は地図では本妙寺の所で右になだらかにカーブし成美小学校の裏手を通って”ポルタひさい”という久居の駅ビルにぶつかっていた.地図上では軽便鉄道は久居付近から北は近鉄と並行に走っていたので,先の小道では90度以上左に曲がらなければいけない.地図では本妙寺付近から軌道は小道と分かれ小学校の敷地を横切っているのではないかと思ったが,小道のカーブは,現地でつぶさに眺めても自然であったのでやはり小道自体が軌道跡であるらしい.
駅ビルには図書館の分室がありそこでも軌道跡の場所をを調べたが分からなかった.軽便鉄道の事ゆえ,かなりの急カーブでもよしとしたのかもしれない.
廃線歩きを中断する.最後はバスに乗ったが長い1日であった.
日を空けずに続きの廃線歩きをした.久居から終点の岩田橋までは5キロ半なのでイージーである.久居駅からは県道776ではなくて近鉄のそばに軌道があったはずなのでそれを探す.久居駅の自転車置き場付近やその北の線路の西の空き地がそれらしい.R165をくぐった北側を県道から何度も軌道跡らしい付近まで入ったが,行き止まりが多くて団地も出来ていて良く分からなかった.近鉄に沿っていた軌道がだんだん西へ離れていく様子も何の痕跡も無かった.
久居市と津市の間の相川でやっとその小さな川に僅かに橋台が残っているのが見つかった.県道の橋の上からもよく見れば分かったが,迂回してそばまで行った.橋台は護岸に埋もれるようではあったがはっきりとそれと判別できるものであった.川の北には土盛りもかろうじて残っていた.東側の運転免許センターの北側で軌道跡は完全に県道に飲み込まれていた.ただ県道の歩道がやや広く感じたのは軌道跡の影響かもしれない.
資料では相川付近は軌道面が低くその前後で蒸気機関車が立ち往生したそうだが,なるほど今でも相川までは下りで,川を渡ってからはかなりの上り坂である.二重池にさしかかったところにバス停「青谷」がありその付近が峠である.二重池駅があったはずだが痕跡はなくなっていた.
右にカーブした下り坂は近鉄南が丘駅の駅前で左に急カーブしている.軌道もたぶんその様であったはずである.他に選択肢は無い.二重池付近では歩道は狭かったが,南が丘駅からは東側に広い歩道がある.いかにも軌道を転用した風であった.南が丘駅の北に水道工事の会社があるがその敷地の橋に何やら3角の柱の基礎みたいな構造物があった.古いものでひょっとしたら軽便時代のものかもしれない.
次の聖天前駅はバス停「中青谷」付近であろうか.県道は近鉄のガードをくぐる.東には岩田池があり休憩にぴったりであった.しかも軽便鉄道の終点は岩田橋駅で終点が近いことも実感できる.
広い歩道が続いていて,下り坂である.だが県道が左カーブしてJRの踏切に達する所で歩道は無くなる.JRの踏切を渡り線路沿いを南下すれば50m位で軽便鉄道が今のJRを越えていた橋の橋台が残っていた.それは西側だけではあったが,石積みで高さが6m位ある立派なものであった.
軌道跡を考えるとすぐに先ほどの歩道が無くなった理由が分かった.即ち広い歩道が無くなったところから真っ直ぐ土盛りがあって先ほどの橋台に至っていたのである.土盛りは無くなっていたが橋台が残っていたおかげで軌道の様子が明らかとなった.
JRの踏切の北側に阿漕駅のホームが見える.JRを越えた付近にあった軽便の阿漕駅跡や軌道跡は全く見い出せなかった.地図からは軌道はR23を垂水交差点の南で北東に走っていたはずだが,R23は渋滞解消のため抜本的に太い道路が作られたので軽便鉄道の跡など見いだせなくても不思議ではない.尋ねれば軌道は近くの古道公園を横切ってやや太い道になっているとの事であった.地図上ではそのやや太い道より1本西の道だと想像していたが間違っていた.緑色に歩道部分がカラー舗装されたその道を北上する.旧町名「綿内(わたうち)」を示す御影石の石柱があった.付近は明治時代紡績業が盛んであったそうである.現にその北の今の津球場公園の敷地は紡績工場の跡地だそうである.
道はまもなく岩田川に突き当たる.手前の弁財天駅や終点岩田橋駅の痕跡は全く無かった.せめて解説看板くらいは欲しいところではあった.
廃線歩きは終わりである.R23の新しい岩田橋に昔の付近のレリーフと解説はあったが軽便鉄道には触れられていなかった.橋の上は潮の香りがした.なるほど海が近い.橋を渡った所に最近有料化された石水博物館がある.そこに寄ってから近鉄津新町駅で電車に乗り帰路についた.
軽便鉄道の全線を振り返ると,トンネルは無いが橋梁跡が何カ所も残っていて楽しい廃線歩きであった.