軽便鉄道である赤穂鉄道は1921年(大正10年)に開通した.

 国鉄赤穂線がまだ開通していない時代に,赤穂から山陽本線の有年駅まで延びていた12.7kmの鉄道で,旅客の他に塩を運んだそうである.だが,国鉄赤穂線の相生から播州赤穂間の開通(1951年)と同時に廃線となった.この赤穂線の部分開通は昭和でいうと26年で,以外と遅い鉄道の開通である.すでに赤穂鉄道があったのも国鉄が遅く出来た一因かもしれない.また播州赤穂から岡山まではさらに遅く,1962年の開通であった.

 02年の暮れと03年早春に廃線歩きをした.はじめは1回で済むと踏んでいたが,以外と迷う箇所も多く,また赤穂は何度行っても楽しめるので無理して1回で済ますことはしなかった.迷ったから,ある程度編集して記す.2回目の最後には,赤穂市立図書館に行って赤穂鉄道の資料を調べたので,その情報も挿入する.

 姫路で新快速電車を降り,山陽線の下りに乗り換える.姫路駅の高架化はどんどん進んでいて山陽電車のレンガ造りの高架も,近々,無くなってしまうはずである.相生駅で停車した車窓から見ると,ホームには,”赤穂線40周年”という幕が張られていた.これは全通してからの事を指し,部分開通からは50余年が経つ.赤穂鉄道の廃線からも同じ時間が経つので軌道跡がどうなっているのか楽しみである.

 山陽本線の有年駅で下車する.すぐ西は千種川が北から流れておりJR線は北へ曲がり,川に沿って北上している.山陽線は,岡山県との県境の船坂峠越えをするためにずいぶん遠回りしている事になる.有年駅は赤穂市に属しているが,初めて来たときはその意識は無かった.

 駅の北西,徒歩20分の千種川近くに,有年考古館・有年民俗資料館がある.以前来た時,そこで赤穂市に属する事を知った.付近の山陽本線は山間部を走っている一方,”赤穂”は海岸沿いのイメージが強く,気がつかなかったが,かなり北まで市域があることになる.1回目は資料館には寄らなかったが,2回目に再訪した.WEBでここの事を公開しているので,情報の更新の意味がある.赤穂鉄道の資料も見たかったのだが閉まっていた.帰りに有年原・田中遺跡に寄った.そこは有年駅の北西で,車窓からも見えるが,資料館については,”要予約”となっていた.人手が足りないのか,拝観しにくくなっていた.ただR373には,車用に当館の大きな案内看板があり,ちょっとそぐわない感じがする.

 話が寄り道してしまった.

 有年駅前には木の柱に白ペンキで駅の解説が為されていた.赤穂市教育委員会によるものでその先でもしばしば見かけることになる.内容は,有年駅は明治23年(1890)に山陽鉄道有年駅として開設され,駅舎は当時の面影を残している,とある.

 駅舎は木造のどうって事は無い平屋だが,駅前には橋上駅への計画図の看板があり,完成すれば駅の雰囲気は大きく変わるはずである.駅の南はR2で,その間の駅の西南に空き地があった.赤穂鉄道のターミナル跡かもしれない.

 駅には,教育委員会による付近のハイキング道や名所旧跡の解説もあったが,軽便鉄道には触れられていなかった.

 図書館で調べた写真と解説では,軽便は本線とは独立な駅舎があり塩倉庫もあった,とある.そういえばその辺りに小さな貨物駅風の倉庫があったが関係があるかもしれない.塩は古来貴重な物であり,俵に詰められていて運ばれていた様である.赤穂の城跡にある歴史博物館には塩の資料が詳しい.塩廻船で大坂や江戸に運ばれたようだが,比較的近くへは千種川の水運が使われたはずで,山陽線という幹線の鉄路が出来てからは,赤穂から有年へ軽便鉄道が出来たのも頷ける.

 有年駅跡をスタートしR2を西へ歩く.国道が緩やかなS字をしている所で,軌道は国道の南側へ渡っていた様子であった.そこから西へは南側が崖で軌道跡は国道の一部となっている風であった.

 すぐ西で,R2の北側の歩道に道標と解説があった.先の赤穂市教育委員会のもので,左,岡山廣嶋道.右,上郡鳥取道,とあり,なるほど里道が北に延びていた.先の資料館への近道でもある.何かの用事で,天皇が来た,とわざわざ記されていた.

 南の崖を過ぎた地点で小川に架かる地蔵橋を渡って南へ行く.軌道跡らしいスペースがあり軽便鉄道は,小川を斜めに渡ったらしい.

 軌道跡の道は県道525で,千種川の左岸を走っている.舗装道路だが狭く,いかにも軌道の跡という感じで,滑らかである.

 右から千種川の支流の矢野川が沿ってくる.谷口の集落に着く.新興住宅地風であるが,そこで跡を間違えた.軌道跡は,県道ではなく3本ある道の内,一番東の山側がそれであった.北側の分岐点では,そうとは分からず県道をそのまま進んだが,南の合流地点で気が付いた.軌道は川のそばを避け,距離的には遠くなるが山裾を通っていたことになる.

 集落が終わり,県道に戻った地点は千種川から支流への分岐点に当たり,船着場跡があった.解説によれば,江戸時代に有年横尾は安志藩小笠原領に属してその船着場であったそうである.海から千種川を遡ってここまで,さらに多分もっと上流までも水運があった事になる.塩以外でも川船が活躍したことになり,考えれば軽便鉄道はその代換交通であったとも云える.

 矢野川は千種川に合流し,太くてゆったりとした流れになる.軌道跡に勾配はあまり感じなかった.

 東側は崖で,車もわずかになり,雰囲気の良い廃線跡である.南へ進むと,千種川が西に膨らんだ地点になる.河原が形成されていて,道は2手に分かれる.富原(とんばら)の集落にかかった.

 廃線跡は,今度は東側の県道そのものであるのが勾配や道の滑らかさで分かった.軌道跡の道は狭くていかにも軽便跡らしい.それでも東側の崖を切り取るのは手間がかかったと思われた.河原があるので,道は千種川の流れからやや東へ離れる.

 千種川に架かる富原橋が見えてくると駅跡の解説があった.

 富原(とんばら)駅跡

 赤穂市教育委員会の解説を写す.次の真殿駅間1.5km,有年駅間2.3kmの停車場で乗客がある場合にのみ列車が停止していた.駅舎は無人で待合室のみの簡便な建物であった.

 木の柱には独立に,”高雄歴史を語る会”の看板もあった.地図では千種川の下流の右岸に高雄という町,左岸一帯の東側に高雄山(182m)があった.

 軌道の西側の河原との間は崖で,家の2階以上の高さのギャップがあった.駅へのアクセスは急な山道風の小道のみしか無かった.崖の下は河原が広く,田んぼもある土地であるが,川の氾濫を相当警戒して軌道が作られた事が分かる.

 富原集落が終わり,集落の北で分かれた道が合する.ずっと東側は崖で,「ほとけ岩」,「たんす岩」というのも,”高雄歴史を語る会”の看板で記されていた.見上げると一枚岩で名前が付いているのもうなずけた.古い枕木も数本転がっていた.岩の崖を切り取って軌道面を作るのは難工事だっただろうと思われた.

 勾配はかなり急な下りになる.木立で見えないが,千種川の流れもそうなっていると思われた.勾配は一旦緩やかになり,それは流れの通りなのであろうか,とにかく車はまれだし,いい気分の廃線歩きである.

 左岸がやや広くなり,小さく土盛りがあった.水のない小川に石の橋台があった.古いもので当時のままらしかった.

 すぐ南に真殿駅跡があった.だが,付近は人家が全く無い.解説では,真殿駅は乗客の乗り降り用の駅ではなく蒸気機関車に給水したり石炭を積み込むための駅である,とある.駅舎は便所のほか軌道脇に貯水塔が設置されていた,そうだが,木の柱のたもとの,”高雄歴史を語る会”の看板では,”旧赤穂鉄道真殿給水場跡”とあった.後で図書館で見た写真には汽車への給水のシーンがあった.

 ふた駅で3.8kmだが,ゆっくり歩いて崖の岩石を見たりして楽しんだので結構時間がかかった.

 駅跡の100m位南に,又”高雄歴史を語る会”の看板で,この辺りに切りかえポイントがありました,とある.看板の裏側も同じであった.古くやや読みにくいので,木を焼いて黒くし,白ペンキで書き直されていた.こまめに手が入っていて頭が下がる.

 ポイントがあった割には,軌道跡の道路はそんなには広がっていなかった.引き込み線があったかやや疑問であるが何せ軽便である.箱の断面積も想像しなければいけないが,図書館でもうちょっと詳しく調べればよかった.

 又,土盛りと石の橋台があったが,付近の西側は私有地の竹藪で川面はほとんど見えなかった.大きな崖の露頭とその少し先に落石防止壁があった.落石防止壁は軽便時代からあったかどうかは分からないが,見ると,高さ1.30m,長さ19.00m(19.08m)とペンキで書かれていた.

 付近はずっと下り坂で左の崖に立派な一枚岩もあった.工事はさぞ大変だったと想像できる.木立のせいで暗く,深い山の林道を歩いている気分である.

 また小さな石積みの橋.さらに崖が出っ張っていたのか,崖の切り通しもあった.”岩を穿って難工事の末の完成”,と感じた.

 実はさっきから騒音がする.新幹線のものであるのが地図で分かる.新幹線の千種川の橋梁が見えてきた.川は大きく東に蛇行し,そこで軽便は千種川を渡る.

 蛇行する部分で平野があり,周世集落があった.富原から久しぶりの人家である.見通しが良くなると,千種川・現代の新幹線・山並み,という具合で,大変良い眺めである.

 平野部では軌道の土盛りは削られ,その分,道は広げられていた.

 周世駅跡に着く.地名は地図では,すせ,だが看板にふりがなは無かった.

 次の根木駅まで0.8km,真殿駅まで1.5kmで,あとは富原駅の記述と同じであった.新幹線は頻繁である.いつか新幹線の車窓に注意して千種川を渡るときに,今いる場所が見つかればいいな,と思った.

 軌道は,一旦川から左カーブで東へ離れ,大きく右カーブし県道457に合流する.そしてすぐ新幹線の高架をくぐる.東からの新幹線の高架は,そのまま橋梁となり大規模な土木工事に現代を感じた.

 軌道跡はすぐ高雄橋で千種川を渡るが,その手前に高雄地区文化財案内図があった.赤穂市教育委員会とあるが下に,高雄歴史を語る会,とありそっちが主体となって看板が描かれたことが窺えた.看板には,ちゃんと軽便の駅跡も記載されているのが良かった.有年駅の文化財の看板には鉄道の記述が無かったのと対照的であった.

 今の高雄橋の道路橋は新しく,上流側も下流側も鉄道の橋脚や橋台の跡は見つからなかった.後で図書館の資料を見た.鉄道橋は根木鉄橋といい,何本かの石の橋脚に鉄の桁が架かっていて,流れの多い部分はトラス構造になっていた.軽便としては立派な鉄橋であったそうで,写真でも堂々と写っていた.廃線後も1978年(昭和53年)まで道路橋として使われたが,昭和54年に老築化ですぐ上流側に新橋が出来た.もっと早く来ればよかったと思った.

 根木鉄橋の橋脚の基礎は堰堤を兼ねており,そういえば新しい橋のすぐ下流側には部分的に壊れた堰堤があった.さらに左岸の取り付け部分には道路の脇に土盛り,右岸には軌道跡として自然に見えた里道もあった.

 千種川は,上流から橋の先の崖の岩場を避けて東へ蛇行している.うまく場所を選んで鉄道の軌道が敷かれ,鉄橋が設けられたことが地図で納得できた.

 県道457が終わり,バス停「根木」に着く.

 赤穂鉄道根木駅跡の解説があったので写す.

 大正10年(1921)に播州赤穂・有年間を結ぶ軽便鉄道が開通した.ここに根木駅舎があり駅長が常勤していた.ここから千種川を渡った山裾に線路が通っていた.

 記述が赤穂からのものなので,北へ向かっての表現となっている.図書館での写真には根木駅の島型ホームと,すれ違う列車の写真もあった.

 右からトンネルを抜けてきた県道90がぶつかってきて,道も県道90になる.それはずっと千種川の対岸,つまり右岸に見えていた道で車が多かった.R2から赤穂方面は廃線跡ではなくそっちがメインであるが,個人的にはそれで大変具合が良いと云える.

 県道90に合流して一気に車が多くなる.右側の歩道に,赤穂用水のトンネルがあり,解説があった.1616年通水とあった.今はやや西に間口の大きな新しいトンネルがあり,高雄川隧道,と記されていた.千種川が蛇行する部分から用水路としてトンネルが掘られた事になる.

 車の多い県道から西に分かれる道があり,そちらが軌道跡なのが地図で分かる.そっちを進む.その道は,地図では里道風に描かれていたが,拡幅されたらしく車も多い.

 すぐに見えていた山陽自動車道くぐる.山陽自動車道は西が山でトンネルであるが軌道はその山麓に沿っていた.

 採石場を過ぎると目坂駅跡に着いた.

 解説では,坂越駅まで1.8km,根木駅まで1.1kmである.あとは富原や周世と同じ駅の造りの解説があり,あと,この駅から根木駅にかけて登り坂となりしばしば列車が立ち往生した,とあった.歩いてきて,そんな風なきつい下り坂には感じなかったし,むしろ富原から周世駅までの千種川左岸の方が下り坂を実感していたのでちょっと意外であった.

 畑作業をしていた人に聞くと,目坂駅のホームは道路の西側歩道付近にあり,畑から石,バラス,がまだ出てくるそうであった.

 千種川は東側に曲がってから西南に進み,赤穂の市街地方面へ流れている.正面の山裾を避けている訳であるが川に沿った道も2回,やや左カーブした後,大きく右カーブする.JR赤穂線が見えてくるが,千種川に架かる鉄橋は川の堤防で死角で見えなかった.堤防は県道90で車は依然多かった.

 カーブが終わる頃に,北側に里道が分かれる.赤穂用水に沿った道である.試しにそっちを行ったが明らかに線型が違う事が分かった.

 かなり迷った後,車道に戻る.2回目も合わせて総合的に結論だけを書く.地元の人にも何度か尋ねた.

 今までずっと駅跡にあった解説の柱は,坂越駅跡には無かった.その先,砂子駅跡と終点の播州赤穂駅跡には解説の柱があったので,ここの分が欠けていることになる.

 軌道跡は,車道からJR坂越駅の北東の病院の前で車道から,小川と赤穂用水を一度に斜めに渡り,山裾を走っていた.車道はやや西で緩やかなS字を描くが,そこが軌道跡への分岐点ではなかった.

 分岐点は,なるほど斜めに土管が渡っていて,小川や用水の土手も石積みが残っており,且つ,少し曲がっていて,軌道が斜めに横切るのに都合がいい様になっていた.

 軌道跡が見つかれば後は比較的簡単である.跡は砂利道の里道になっていて犬の散歩が多かった.一旦,廃線跡は長楽寺の前から歩けなくなる.廃線跡と小川の間の道を歩くと砂子駅跡の解説の柱があった.

 砂子は,まなご,とルビがあった.解説では,赤穂駅から2.5kmで,あとは又同じ内容の記述があったが,追加分として,裏山に保線用の土取り場の跡があった,というのがあった.

 ただ軌道の跡は人家と思われ,一方,里道の脇に解説があったので相当悩んでしまった.一旦用水の南側に軌道が移るのか,と考えたが結局それは不自然で,一貫して赤穂用水の北側を軽便は走っていたと結論した.

 跡は桜並木の砂利道の散歩道で快適である.桜は後で植えられたと考えられる.富原から周世までと同様に,再びいい雰囲気の廃線歩きであった.

 西へ進む.自動車教習所付近で軌道跡は消えてしまった.迷って赤穂用水に沿った道も進んだが,結局軌道はその辺りで南の車道,坂越からずっとあった道,に戻ると思われた.ただ新しそうな川の放水路があり,元の地形が全く分からなくなっていた.

 結局加里屋川に架かる春日橋で車道に出て,すぐ加里屋川放水路を車道の下長田橋で渡って”駅北さくら通”を進んだ.真っ直ぐな道で両側に歩道があり,軌道跡は大きく様変わりしたと思われる.道路に沿っていたかもしれない軌道跡も検討したが多分道路の一部が軌道跡と思われた.道路が右にカーブする地点で軌道跡は左に曲がり,現JRの軌道に斜めにぶつかると思われた.

 付け替えの際の様子は,図書館の資料が詳しかった.

 昭和26年12月11日,夜10時,(軽便の)播州赤穂駅行きの最終列車が通過した後,国鉄の平面交差部分のレールが付け替えられた.次の日に,新しい国鉄の播州赤穂駅から相生駅までが開通した.

 ちょっと,ぐっと来る記述であった.

 現在線の線路の踏切を渡り,軽便の延長上と思われる地点に立った.雰囲気は全く残っていなかった.それより南へは軽便鉄道の跡は広い道路となっていた.図書館の写真を見ると,軽便時代は市街地といえども人家は少なく,広々と軽便が通っていた.

 2回目の最後にちょっと寄り道して図書館に行った.初めは地図で,道路の西の市民会館の西側に図書館があるのが分かっていたが,行ってみると図書館は引っ越していた.間違えたのだが,旧図書館の前に「赤穂鉄道顕彰の碑」があったので幸いした.経緯が石に刻まれていたのだが,重要なのは,赤穂から見た立場で書かれている事であった.地元の有力者が出資して出来た軽便のおかげで,交通が不便であった赤穂の産業が飛躍的に発展したとあった.良く納得できた.有年から軽便は12.7kmなのだが幹線への輸送路が重要であることを再認識した.ただ軽便はカーブも多いし大量輸送は国鉄の新しい線路に取って代わられた理由も良く頷けた.

 聞くと図書館は近くへ引っ越したとの事,だが私にとっては逆戻りであった.

 戻ってしばらく歩くとウエスト新姫の車庫・バスターミナルがあり,その前に,”赤穂鉄道「播州赤穂駅」”の解説の柱があった.12.7km,大正10(1921)〜昭和26(1951)位の記述しか無かった.情報が欠けていた坂越駅から砂子駅までは1.2kmになるが図書館でのデータで既に解かっていた.図書館で広い終着駅や機関庫の写真を見たので,余計物足りなく感じた.ただ,そこがバスターミナルだったのが辛うじて面目を保っているとも思えた.

 迷うことの多かった廃線歩きを終わり,整備が進む赤穂城跡を散歩してから帰路についた.