山陰線特急「まつかぜ」の思い出




     この前、年に一度の大阪城ホールのイベント収録に行くために電車に乗っていると、特急「まつかぜ」のリバイバル列車とすれ違いました。なんだか駅のホームにカメラ小僧がいるなあと思っていたら、こういうことだったのかと納得したと同時に、懐かしいなあと様々な思い出が甦ってきました。

     というのは、このコラムでも何回か触れているように、私は両親の田舎が島根県江津市にある関係で、特に中学生までは、夏休みなどの長い休みには、まるまる両親の田舎に行きっぱなしでした。そして、そのアシはというと、ほとんどが特急「まつかぜ」の利用だったのです(たまに急行「だいせん」、そしてごくまれに三江線まわりという、マニアックなルート取りをしたこともありましたが・・)。

     「まつかぜ」は、昭和36年10月に、山陰初の特急列車として、京都〜松江間に登場しました。私がよく利用していた頃の「まつかぜ」は、大阪〜博多間を走っていた最盛期で、13両もの気動車が連結された列車は、その紫煙も圧巻で、とてつもなく迫力がありました。

     私は当時箕面に住んでおり、行きは8時大阪発、帰りは20時44分頃宝塚着というのが、いつものパターンでした。当時の宝塚駅のプラットホームは、とても13両分もの長さはなく、列車の前部や後部は当然プラットホームにかかりません。帰りの宝塚到着時には、扉が開いて暗闇にアシを踏み出そうとすると降りるべきホームが無く、びっくりしながらおそるおそる暗い線路におりた記憶が何回かあります。現在、宝塚駅の2、3番線ホームは当時と比べれば驚くほど延伸されたものの、逆にその頃から長大編成の列車が無くなってしまったのは、全く皮肉なことです。

     また、宝塚到着というと、列車のダイヤが大幅に遅れ、宝塚に到着したのは深夜の24時前で、もう連絡の阪急電車はなく、タクシー待ちに並んで、自宅に帰るのに四苦八苦した、そんな思い出もあります。

     一方で、山陰線江津駅での大阪行への乗車の情景も忘れることができません。見送りに来た祖母達とプラットホームで列車を待っていると、「チリン、チリン」と2回ほど、発車ベルが短く鳴り響きます。そうすると、彼方の線路に紫煙に囲まれた「まつかぜ」の車体が見えてきて、いよいよお別れの時となるのです。私が車内に乗り込み、窓外の祖母達と手を振っていると、駅のアナウンスが「次の停車駅は大田市、大田市です。つぎはおおだし〜、つぎはおおだし〜」というのにあわせるかのように、ディーゼルのエンジン音がこだまして、列車はゆっくりと発車していくのです。そして、江川鉄橋を渡るころには、楽しかった思い出と、なんともいえない寂しさで、目がウルウルしていたものです。

     そんな、「まつかぜ」は、山陰への鉄道ルートが伯備線主体になったこと等が影響して、昭和60年に米子で系統分割され、さらに翌年には福知山線の電化完成とともに、廃止されてしまいました。この10月に「スーパーまつかぜ」として、愛称のみは復帰したのですが、私にとって「まつかぜ」は、私に古き良き時代の鉄道旅行の一端をかいま見せてくれた、思い出の列車そのものなのです。






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