別府港駅跡から北方へと向かう野口線跡に対して、右へとカーブを切る雰囲気が残っているのが土山線の跡である。野口線跡と同様、別府鉄道現役当時から架け替えられていない山陽電鉄の跨線橋をくぐると(I地点)、廃線跡を利用した道路の幅がグッと広まって、車の行き交う一般道路になり、鉄道跡の匂いは薄れてゆく。
中野駅は、国道250号線の高架が覆い被さるようなところにあったはずだが、もともと短い客車が1両止まれる程度のホームしかなかった駅の跡は、何も見あたらない。

しかし、左手に川崎重工の工場が見えてくる手前のあたりに、国鉄のものとは明らかに大きさや雰囲気の異なる貨車の廃車体が、倉庫代わりに使われているのが見えてくる(J地点)。これは以前はワ124という表記によって、別府鉄道の廃貨車体であることが一目瞭然であった代物である。残念ながら、現在は全体が黒く化粧直しされて、表記が消えてしまっているが、別府鉄道の貴重な忘れ形見のひとつであることには変わりがない。
やがて、廃線跡の道路は大中遺跡にぶちあたる。ということは、別府鉄道の線路は古代遺跡の中を貫いていたということになる。
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郷土資料館裏に保存されている車両群。 軌間こそ1067ミリであるが車体は軽便サイズ 並の大きさである(平成8年撮影、今は手前 の看板などに、かなり錆がまわってきている) |
この大中遺跡は、先土器時代から古墳時代にかけての住居跡がある有名な遺跡である。現代では、このように遺跡を突っ切る線路の敷設のされ方はなされないであろうが、平城京の大内裏脇を素知らぬ顔で通過する近鉄奈良線など、昔に敷かれた鉄道は、古代遺跡の存在をあまり気にしないで敷設されていたようである。
大中遺跡が地元中学生3人によって発見されたのは、昭和37年のことであったので、土山線の敷設時には遺跡の存在に気付いていなかったことになるが、公園となっている大中遺跡の案内看板を見ると、一部の住居跡など、貴重な遺跡が線路によって削られているのには驚かされる。
さて、加古川市内を進んできた廃線跡は、この大中遺跡から播磨町域へと入ったこともあってか、「であいのみち」という名の遊歩道にその姿を変える。この「であいのみち」が大中遺跡の中を進むうち、右方に郷土資料館がある。この建物の裏手に、別府鉄道で使用されたディーゼル機関車と客車が、土山にあった駅名標や看板とともに、屋根の下に大切に保存されている(K地点)。
この鉄道は、開通当初から軌間については国鉄と共通の1067mmであったのに、設立当時は軽便鉄道から出発したからなのか、所有車両は長さも幅も小ぶりであった。ここに保存されている機関車と客車も軽便鉄道級であり、こんな浮世離れしたような車両が、都市近郊の中をつい十数年ほど前まで走っていたとは、実際乗車したことがある私でさえ、半ば信じられないような思いである。
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| 踏切跡に突然頭を出す2本のレール(L地点) |
喜瀬川に架けられていたちっぽけな橋梁は完全に撤去され、遊歩道用の別橋梁が鉄道時代とは少しずれた場所に架けられている。このように、「であいのみち」は、道幅にこそ鉄道時代の匂いを残しているものの、廃線跡の風情には乏しい。ただ、土山にほど近い踏切跡で、4メートルほどレールが頭を出しているのは嬉しいことである(L地点)。
やがて前方に山陽本線が見えてくると、脇に建つマンションのためのエントランスのようにも見える「であいのみち」は、緩やかに右にカーブしていく。
土山線の国鉄接続駅であった土山駅は、現在JRが使用しているホームのさらに西側に、もう一面の別府鉄道用の島式ホームがあって、現在も使われている構内の跨線橋も、このホームまで延ばされていた。しかし、これらの施設はすべて撤去され、跡地の一部が神姫バスの転回場として使われている。
それでもまだまだ敷地は余っており、今も当時の構内の大きさを偲ばせている。
私はこの鉄道の現役時代に、両線の列車に乗ったことがある。このとき、野口線で走っている最中に、車掌が「次降りる方はおられませんか」と乗客に聞いて回り(もっとも一両ぽっちの気動車の中に、聞いて回るほど乗客はいなかったが)、さらに駅の短いホーム上に人がいないのを確認して列車は駅を通過したため、バスに乗っているような奇妙な感覚に襲われたことを覚えている。
この頃は、まだ一部にマンションが建ち始めた以外は、沿線は長閑な風景が続いていたものだったが、現在は宅地化が相当進行した。廃止から20年の歳月を経たことに加え、一帯は開発途上の都市近郊であるので、もう完全に廃線跡の整備は完了していて特筆すべきものは少ないが、歩行者・自転車専用道になっている区間は、地域住民の生活道路や散歩道として人々の通行も比較的多く、着実に第二の人生を送っている印象を受ける。
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