■沿革

 別府鉄道は、別府港にある多木製肥所(現在の多木化学)が、製品の輸送のために、既存鉄道網と直結するべく自前で開設した軽便鉄道がそもそもの始まりである。

 まず大正10年に、播州鉄道高砂線(のちの国鉄高砂線)の野口から別府港間が開通した。開業当初は機関車の製造が間に合わず、車両や運行は播州鉄道の手にゆだねて、加古川から別府港までの直通運転をしていたという。


 そして大正14年に、別府港から山陽線の土山までの土山線ができると、貨物輸送は山陽本線に直接接続するこちらのルートがメインとなるとともに、すべてが自営の運行に切り替えられた。

 野口線は、のちに旅客営業専業となったが、土山線はあくまで貨物輸送がメインであったため、旅客は専ら機関車が牽引する貨客混合列車によって運ばれていた。この列車の編成が秀逸で、とても1067ミリ軌間とは思えないようなちっぽけな機関車が先頭についたり、全体的に丸っこくて、屋根に段があるようなクラシックな客車がつながれるなど、おおよそ現代とは浮世離れしていた。

 一方の野口線を走る気動車も、前後に荷物を載せるデッキがついたものが走ったりと、あたかも走る博物館のような鉄道であった。

 別府付近から神戸・大阪、あるいは姫路方面へは山陽電鉄が、そして加古川へは神姫バスが強固な地盤を築いて、フリークェンシーに富んだ運転をしていたため、別府鉄道の乗客は多くなかった。特に土山線の乗客は少なかったが、会社全体でみると土山線の貨物輸送こそが収益源であり、これがある限りは安泰であった。

 ところが、昭和59年2月の国鉄のダイヤ改正において、貨物輸送が拠点間輸送に切り替わるという大幅な合理化が図られることとなった。この一環で、山陽本線土山駅の貨物中継も廃されることになり、別府鉄道の大黒柱であった土山線の貨物輸送が事実上不可能となり、あえなく全線が廃止となった。

 この59年2月のダイヤ改正は、中小のみならず小田急等の大手をも含む、全国の多くの私鉄の貨物営業を廃止に追い込んだ。特に中小私鉄にとっては、別府鉄道のような全線廃止こそ免れても、大打撃を被った会社が少なくなかった。

 営業最終日となった昭和59年1月31日は、この付近には珍しく大雪となった。付近の道路が交通マヒを起こして大渋滞となるなか、別府鉄道は何事もなかったかのように運転され、鉄道の意地を最後に見せつけたかのような幕引きとなった。

 沿線は都市近郊であることもあって、廃線跡は両線とも道路や歩行者・自転車専用道に整備されており、所々の踏切跡にレールが埋まっている程度で特筆すべきものは少ないが、沿線に保存してある車両がアクセントになっている。



■ガイド 野口線 野口〜別府港間

 野口線の起点は、国鉄高砂線が加古川を出て最初の駅である野口であった。

 ここは加古川市の市役所や市民会館などの公共施設が近接するなど立地は悪くないうえに、国鉄から私鉄が分岐するため、そこそこの規模をもっていたように思いがちだが、実際はあっけないほどちっぽけで、短い島式ホームの片側を高砂線、もう片側を別府鉄道が使うという、接続駅としては最小規模で、また晩年は無人駅と化していた。

 別府鉄道の開設当初には、両線の線路はつながって、加古川への直通運転もなされていたが、野口線の貨物輸送が廃止されてからは、線路の接続も切られていた。それでも別府鉄道のダイヤは高砂線に接続するように組まれていたため(当然といえば当然だが)、1日10回ほどの両線の列車の同時到着時だけは、島式ホームの上が乗り換え客で少し賑わっていた。この時は同じ1067ミリ軌間であるとは思えないほど、国鉄の気動車が大きく見えた。逆の言い方をすれば、それだけ別府鉄道のディーゼルカーは、前時代的な小さな車両であった。

 そんなちっぽけなターミナル駅は、現在の市役所東口バス停のあたりにあったはずだが、国鉄高砂線跡自体が市道として整備されており、ここに駅があった雰囲気は微塵も残っていない。初めて訪れた人ならここに鉄道が通じていたことさえ信じられないであろうが、バス停の横に国鉄駅跡の碑と駅名標等の鉄道遺物が置かれてあり、ここに国鉄駅があったことだけは今でも認識できるようになっている。

 野口駅跡からの野口線の廃線跡は、加古川市の整備による「松風こみち」として再生されている。残念ながら、完璧に整備が完了していて鉄道跡としての風情には乏しい。ただ、「松風こみち」が始まってすぐの踏切跡(A地点)など、数ヶ所にはレールが残されているほか、駅跡ではほんの少し広くなっている敷地を使えるからか、休憩所が設けてあるケースが多い。

別府川橋梁跡
別府川にかかる橋梁は鉄道時代のまま(B地点)  

 「松風こみち」は、左カーブを終えると別府川にさしかかるが、ここの橋梁は鉄道時代の頑健な橋桁をそのまま利用していて、遊歩道の橋としてはいささか不釣り合いなほどである(B地点)。

 そしてここから先は、まっすぐな、さしてアクセントもない廃線跡探訪が続くこととなるが、円長寺の駅跡にほど近い公園の片隅に、別府鉄道の気動車キハ2、および円長寺駅で使われていた時刻表などの看板類や踏切機器が保存されている(C地点)。特にキハ2は車両の前後にデッキがついているという、大正生まれらしい大変レトロな形をしている。

 個人的な話で恐縮だが、私は別府鉄道の現役時代に、たまたまこの車両に乗ったことがあるので、初めて見つけたときには少なからず興奮したとともに、ペンキが剥げて屋根もささくれ立っていた車体の荒廃には心を痛めた。しかし、最近化粧直しがなされ、窓枠周りの色が私の記憶とは多少異なるものの、美しい姿が甦っている。

 円長寺駅跡の少し先の、D地点の踏切跡でもレールが残っているが、まもなくこの地に鉄道が通じていたまさに「最大の」痕跡が現れる。それは国道250号線の東行に架けられている野口陸橋である(E地点)。後述する土山線跡にも同じような高架橋があるじゃないかと思われるかもしれないが、ここでは明石方面行の高架橋に対して、姫路方面行は単なる地平道路になっている。

円長寺駅跡のキハ2
円長寺駅跡付近にあるキハ2、及び看板や  
踏切機器等の遺物。車両の前後にあるデッキ  
は荷物などを載せるためのもの(C地点) 
別府港駅
現役時代の別府港駅。ちょこんと止まっている気動  
車はキハ2であり、現在円長寺駅跡近くに保存され  
ている車両そのものである(昭和55年3月撮影) 

 この奇妙な形態のわけは、道路の開通時、まだ健在であった野口線と立体交差するために、昭和54年に架けられたのが、現在の明石方面行に使われている野口陸橋で、当時は道路の上下線ともがこの高架橋を使用していた。それに対し、車線拡幅に伴って建設された現在の姫路方面行部分は、野口線廃止後につくられたため、高架橋で道路を持ち上げる必要はなく、地平道路となったのである。よって、ここは河川を横切ったり主要道路が交差するわけではないのに、片方行きの車線だけが高架橋になっているという、理由を知らない人にとってはまこと不思議な場所と化した。

 F地点でも踏切跡にレールが残っているのを見ると、「松風こみち」はまもなく緩やかに右にカーブしていく。やがて山陽電鉄の下をくぐるが、ここに架けられている山電の橋梁は別府鉄道が走っていた当時と変わっていない(G地点)。このあたりで遊歩道が終わり、野口線が先にできた素性をあらわすように、左方から土山線跡があわさると、別府港駅跡のはずである。

 しかし、機関区もあって、少しまとまった土地を持っていた駅跡一帯は、道路の他にパチンコ屋の駐車場、そしてさらに巨大なイトーヨーカドーの駐車場と化している。現役時代は、なんだか俗世間からタイムスリップしたような静かな場所だったが、なんとも現代的な普通の場所に成り変わってしまっている。とても以前私が訪れた場所と同じとは信じがたいが、その南側に、今ではタクシー業が主体となった別府鉄道の社屋が建っていて(H地点)、間違いなくこの場所が別府港駅のあった場所であることを教えてくれる。

 線路は、さらに南側の多木化学の工場方面へと延びていた。この引き込み線跡は、空き地になっていた時期もあったが、現在は道路化されている。

  つづき

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