■ガイド 三井芦別〜玉川町(頼城)間

 三井芦別の駅跡を出ると、廃線跡は工場の脇をすり抜け、交差地点のアスファルトがいかにも感を醸し出す踏切跡で国道452号線とクロスする。この地点にあった停留所は、三井芦別第一坑のある谷の入り口であることを指し示す、入山という名が付されていた。

 そして、この鉄道跡で唯一レールが残る、炭山川橋梁跡にさしかかる(B地点)。ここはカーブした橋梁が完全に残されているだけでなく、機関車に石炭貨車一両をつなげた編成が、なんと橋梁上に残されていることで有名な、この鉄道最大の遺跡である。ただ、私が訪問した平成12年の五月末には、誠に残念なことに、橋梁上には車両は見あたらなかった。

 ではどうしたのかといえば、車両が冬季間中に積雪で痛まないよう、廃線後に橋梁跡の頼城方に設けられた、屋根付きの車庫に待避しているのである。直接この鉄道で働いた車両を見られなかったのは残念であるけれども、ちゃんと手入れがなされているということの裏返しでもあり、大変喜ばしいことである。ただ、一年に2回あるはずである車両の移動をどのようにやっているのかは、鉄道車両にほとんど関心のない私でも非常に興味がそそられるところであるが・・・。

炭山川橋梁跡
レールを載せたまま残る炭山川橋梁(B地点)。本来  
なら奥の方にディーゼル機関車と貨車が置かれている  
芦別川橋梁跡
高い橋台が残る芦別川橋梁跡(C地点)。写真  
に写っている芦別方橋台は実は崩壊寸前である  

 炭山川橋梁を越えて、線路は中の丘といわれた地帯に入っていくが、今ではこの一帯には全く人家はなく、起伏のある荒れ地にただただ雑草が生い茂るだけである。駅があったあたりも、駅跡の芦別方にあった踏切跡に、意外なほど新しい踏切注意の道路標識が建っているのが目を惹く程度で、これといった名残はない。

 中の丘を過ぎると、先ほどの炭山川橋梁と同じような構造の橋梁で、今度は芦別川を渡っていた(C地点)。この芦別川橋梁は残念ながら撤去されているが、かなり高さのある橋台だけは両岸に健在である。もっとも芦別方の橋台は半分崩れかかっていて、遠くから見ているだけでも末恐ろしい。

 この橋梁跡を過ぎると、並行道路が跨線橋で上を越して、頼城の炭住が立ち並んでいた一帯にさしかかる。

 ただ、一角が工業団地に整地されているほかは何もなくなっており、結果として建物もほとんどない平地の中、網の目のように張り巡らされた通りの名前を示す標識や、短い間隔で頻繁に現れるバス停の看板ばかりが異様に目立つ結果となっている。それも本通りとか幸町、あるいは頼城12丁目(!)など、目の前に広がる光景と、付された名前とのギャップに驚きの連続である。

 全盛期には、この市街地に幸町や西町アパート前、芦の湯など、それこそバス停のような名前と短い間隔で設置されていた停留所の跡は、さすがに全く認められないものの、停車場であった緑泉の駅跡は、空き地が目立つ中でもわずかながら家がある一角にある。ここは旧駅舎が民家に使われているのか、今でもしっかりと残っており、駅舎からホームに下っていた階段も認めることができる。

 ここからの廃線跡は、今でも家々が残っている頼城の市街地の外縁部をえぐるようにして進んでいたが、やがてもう1本の築堤が並行するようになる。お互いに小さな橋台を残すあたりからは、東側にも築堤が見えてくるようになる。これらは頼城の構内から延びていた、複雑な線路群の名残である。

緑泉駅跡
緑泉駅跡。左が元の駅舎、右は元構内  
頼城の橋梁跡
頼城駅構内跡北側に残る橋台。右側が本線  

 頼城の構内は巨大であった。実は旅客営業時に終点とされていた玉川町まで、全て頼城の構内であった。巨大な立坑や石炭積み込み設備、それに東洋一といわれた選炭工場などの諸施設が、線路に沿って立ち並んで活況を呈していた。

 ただ、広大な駅跡は全てが撤去されて、はっきり言って何もない。残っているのは駅前広場の敷地の面影だけといっても過言ではない。炭鉱関係の諸施設は、平成8年に解体・撤去されたという。

 貨物ホームの跡らしいコンクリートの塊があったり、ボタの小山があったり、あるいは土がいささか黒ずんで所々石炭のかけらが落ちているだけで、あの圧倒的な威圧感を持っていた以前の姿は、全くの幻でしかない。

 芦別川西岸にも坑口があって、選炭工場の付近から芦別川を渡る橋梁も架けられていた(D地点)が、これも跡形なく撤去されている。この橋梁は、上路トラス橋であったが、なんとトラスが斜めに傾いていた。言い方を換えると、通常のトラスは長方形に筋交いが入る形になっているが、ここでは平行四辺形に筋交いが入る形状をしていた。

 このトラスは、昭和19年頃に資材供出のためにいったん休止された、群馬県の伊香保温泉のケーブルカーから移設されたものだという。もともと勾配区間に架けられたケーブルカーの橋梁の転用であったために、トラスが斜めになっていたのである。それを、戦後になってようやく採炭が本格化した頼城に持ってきたという、知る人ぞ知る珍橋梁であった。



■三井芦別鉄道あとがき

 石炭増産の大号令の下、昼夜の別なく操業をしていた時期には、まさに24時間眠らなかったかつての炭都が、今では昼間さえも眠っているも同然である現状を目の当たりにすると、言葉を失ってしまう。産業が創生するところに多くの人が住み着き、凋落すると潮が退くように去っていくのは自然の摂理であり、また多くの労働力を必要とする炭鉱には顕著なことだけれども、ここに限らず炭鉱跡を訪れると、この国のエネルギー転換に翻弄された都市の無念を思わずにはいられない。

 北海道の炭鉱というと、どうしても夕張地区や、今も操業している釧路地区のイメージが強いが、空知川流域にも三井芦別、住友赤平、北炭空知といったビルド鉱をはじめとする炭鉱が群雄割拠していた。この一帯から産出する石炭を、石炭積出港の一つであった留萌港へより効率よく運ぶバイパス路線として、昭和20年代に芦別地区から深川地区に抜けるバイパス鉄道も計画されたほどである。

 この路線は芦別線(納内〜芦別間31km)と呼ばれ、現に39年に着工されて、芦別から石狩新城までの路盤は完成していた。今回ついでにその跡も探しに行くと、芦別付近の痕跡こそかなりが失われているものの、空知川を渡ってからは、今なお路盤の大半が残っていた。

 もっと驚いたのは、沿線には小規模ながら露天掘りの炭鉱が操業していて、今でもダンプカーによる運炭がなされていた。平成12年の探訪当時というと、日本で採炭しているのは、太平洋炭礦釧路と長崎の松島炭鉱池島の2つだけのように言われていた頃だったけれど、芦別の地に石炭の灯がまだ消えていなかったのは嬉しい発見であった。

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