■沿革

 北海道の石狩川支流の空知川流域には、赤平、茂尻、芦別等に数々の炭鉱がひしめいて、空知炭田とも言われた大出炭地帯を形成していた。ここを東西に貫く根室本線から、これらの炭鉱に向けて、専用線を中心とする数多くの運炭鉄道や索道が枝葉のように伸び、それぞれが隆盛を誇っていた。ここに取り上げた三井芦別鉄道も、芦別から南方へ延びていた専用鉄道がそもそもの発祥である。



 古くは安政年間から露頭炭により石炭資源の存在が知られていた空知川流域の炭鉱の開発は、大量輸送手段である下富良野線(現根室本線)の開通後に本格化した。

 このうち芦別川の刻んだ谷の開発を手がけたのは三菱であり、大正3年から12年までの間に、芦別川右岸を中心として、第五坑までを次々と開坑した。

 この炭鉱群から出炭する石炭の輸送のため、上芦別から分岐する専用鉄道がつくられて活況を呈したが、大正中期の不景気の影響で、石炭産業も大打撃を受けることとなった。各地で統廃合などの合理化が相次ぎ、地質的な問題もあって機械化が遅れていた三菱芦別炭坑は、どんどん規模が縮小されていった。

 そして負の連鎖の行き着いた先は、昭和8年の閉山であった。地域のシンボルともなっていた大炭鉱の閉山は、地域に多大な影響を与え、近隣の中小炭鉱まで休廃坑が続出するありさまで、人口も急減し、芦別はいったん急激に寂れることとなる。

 この地区が隆盛を取り戻すきっかけは、昭和10年以降の軍需の増大による景気拡大であった。今回の開発の担い手は、三菱が採炭していた頃から計画を温めていた三井鉱山であった。

 三井は昭和13年、芦別川の支流である炭山川沿いに第一坑を開坑、西芦別に選炭施設を設置した。昭和15年に、西芦別と下芦別(現芦別)とを結ぶ専用鉄道が開通すると、この炭坑の稼働が本格化した。太平洋戦争直前の、国全体が石炭増産に邁進していた時期でもあり、相次ぐ増産によって西芦別の住民も急増、彼らの要望に応えて、昭和17年5月からはこの専用鉄道を使った旅客輸送も開始された。

 戦況が厳しくなってくると、さらなる石炭増産が要請され、三井鉱山は芦別川を遡った頼城に第二坑を開設した。ただ、この輸送のために西芦別からの延伸を予定していた専用鉄道が、土木工事は終えたものの、戦時中の鉄鋼資材不足によって、レールも満足に敷けなかったのである。昭和20年には第二坑で採炭したものの搬出できず、頼城でやむをえず貯炭した量が7万トンにのぼったほどで、結局、専用鉄道の頼城延長を果たさないまま、終戦を迎えた。

 戦後の混乱の中、今度は復興のために、石炭増産が急務とされた。そんななか、ようやく昭和20年12月に専用鉄道の頼城延長が実現して第二坑からの運炭手段が整った。さらに、地方鉄道免許を取得したことにより、昭和24年には三井鉱山(株)芦別鉄道となり、中心駅であった西芦別は三井芦別という名に改称した。

 翌25年には頼城に東洋一とも言われた巨大な選炭施設が完成し、芦別坑は最盛期を迎えることとなる。芦別鉄道も、昭和33年、新製ディーゼルカーの入線に合わせて、6つの停留所を増設している。

 だが、昭和30年代後半の高度経済成長に伴い、石炭から石油へのエネルギー転換が顕著になるとともに、炭鉱のスクラップアンドビルドや合理化が始まった。周りの中小炭鉱が閉山するなかで、三井芦別坑はビルド鉱として位置づけられ、第一・第二坑でそれぞれ揚炭・選炭していたものを一つにまとめるために新しい立坑を掘削するなど、各種合理化を行った結果、以前より少ない人員で出炭量は増加した。鉄道については、貨物輸送は出炭に応じて順調だったものの、旅客が減少したために、昭和47年に旅客営業を廃した。

 炭都夕張の炭坑が全滅するなど、周りの炭鉱が次々と閉山に追い込まれる中で、三井芦別坑はまさに孤軍奮闘といった状態で、平成の世まで採炭の灯をともし続けた。ただ、電力・鉄鋼業界といった石炭需要業界が、国内炭を高く買い取ることによって維持されてきたシステムも限界に達し、芦別坑も減産を余儀なくされるようになる。炭価切り下げを伴う第九次石炭政策によって、経営の見込みが立たなくなった三井芦別坑は、平成4年に閉山したが、鉄道は減産の影響で、それより前の平成元年に廃止された。ただ、まとまった輸送量に支えられたおかげで、最後までこの鉄道の成績は黒字基調であったという。

 現在でも残っている運炭鉄道は、釧路の太平洋石炭販売輸送(春採〜知人)だけである。



■ガイド 芦別〜三井芦別間

 根室本線芦別駅の構内は、運炭で栄えた駅の御多分に漏れず、数多くあった側線の大半が撤去された、独特の寂しい情景である。その中でもわりあい線路の撤去跡の新しい、つまりバラストの色が少し若いラインが根室本線に並行するように、東へ延びているのがはっきりと読みとれる。これが三井芦別鉄道の線路跡で、さすがに平成の世まで生き延びた残香が漂っている。

 この先、頼城までほぼ完全に残っている廃線敷は、芦別の構内を出ると、釧路方へ向かう根室本線と並行しながらも、通常よく見られるパターンとは異なって、僅かながら角度がついている。そのため、活きている線路と、熊笹が生い茂る廃線敷跡の間隔が徐々に開いて、一般道路が間に割り込むようになる。

 この道路が国道に変わって間もなく、廃線跡はグッと右に大きくカーブしていく。繁茂する雑草に難渋するものの、頑張って踏み込んでいくと、そのカーブを引き継いだ短い曲線トンネルが、目の前の小山にポッカリと口を開けているのが見えてくる。これがこの路線唯一、全長60メートルの芦別トンネルである(A地点)。トンネルの頼城方は柵がなされていて、しかも線路敷が新しい道路に削られているから、先に進もうにも芦別方に引き返さねばならなくなるが、ほとんど手つかずのままひっそりと残されている遺物は興奮ものである。

芦別トンネル
今なおひっそりと残る芦別トンネル。(A地点)  
通り抜けはできないものの、中に入るのは可能である  

 トンネルを出ると、廃線跡は芦別川の左岸を道路と並行するように進むが、意外なほどアップダウンを繰り返す並行国道452号線に対して、鉄道跡らしく一定のレベルを保ったまま進んでいく。やがて平地が開けるようになるが、この一帯が、炭鉱とともに歩んだ街の一つである西芦別地区である。

 この地区に入ってすぐのところに山の手町という停留所があったはずだが、旅客営業をやめて久しいためか、駅跡らしい匂いは残っていない。それより面白いのは、このあたりの道路には山の手通りなど、まさに都市近郊の市街地のような名前が付けられている。

 現に以前は一帯が炭住の立ち並ぶ市街地だったわけだけれども、炭鉱のなくなった今では人家は数えるほどしかなく、道路の名前を示す標識ばかりが林立する光景は、一種独特のものがある。このような名前のイメージとかけ離れてしまった世界は、これからも続いていくこととなる。

 数十メートルほど西芦別中学校のグラウンドに削られた廃線跡を進んでいくと、西芦別地区の中心駅であった三井芦別の駅跡が現れる。ここは一面のみながらプラットホームが残っている。また昔の写真と見比べてみると、旧駅前通のほぼ突き当たりにある、屋根の青緑色も鮮やかなグローバル精工という会社の建物が、駅舎を美しく化粧直ししたものに相違ないようである。

三井芦別駅跡
プラットホームが残る三井芦別駅跡。その奥に見  
えている青緑色の屋根の建物が元駅舎と思われる  

 昭和40年に揚炭を頼城の芦別立坑に統一するまでは、炭山川上流の第一坑から、この駅の頼城方の線路西側にあった選炭施設まで、石炭が連絡軌道によって運ばれていた。プラットホームがあったところの、いわゆる停車場中心の鉄道用地幅が、主要駅であったわりにはそれほど広くないのは、選炭施設に隣接するようにあった石炭積み込み施設や、機関庫などの諸施設が、本線に並行して頼城方に並んでいたためである。

 昭和62年に鉱業所の事務所までもが頼城に移転した折には、駅名も「第二頼城」といういかにも凋落したものになった。しかし、機関庫だけは最期までここに残されたために、頼城〜芦別間往復の石炭車の牽引を終えた機関車は、頼城から単機回送でここに帰ってきていた。

つづき

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